私もアスリート? オリンピック応援の心境変化。

オリンピックが大好きだ。お金と時間があれば、4年ごとに(冬季を含めれば2年ごとになるか)オリンピックの追いかけをしたいと思っている。何が好きかといえば、やはり、世界最高の能力を備えたアスリートたちが究極の目標としている舞台だからだ。そのパフォーマンスを見るのはそれだけで、ただただ「ありがたい」という気持ちで、同じ人間として理屈なく陶酔する。種目として一番好きなのはなんといっても100メートル。まさに最高中の最高の人間があつまった舞台であり、こちらは純粋に観客として楽しんできた。肉体の芸術だ。
そこで、今回の冬季オリンピック。私の関心はなんといっても村上愛子であった。金とまでは言わなくとも、村上愛子にメダルをとらせたかった。今日は朝からハラハラドキドキで、見ていられないほどに撞着し、レースが終わったあとは呆然として心落ち着かず、スポーツジムにトレーニングに出かけて自分を取り戻したほどだった。
こんなふうにスポーツを見たのは始めての経験だ。私はモーグルという競技にとりわけ関心があるわけではない。村上愛子のレースを追いかけてみてきたわけでもない。彼女のパフォーマンスに陶酔したこともない。つまり、村上愛子というモーグル選手のフアンではない。ただ、アスリートとしての彼女のもつ前向きな明るさ、心和ます爽快感に心ひかれ、テレビで伝えられる12年の努力の軌跡を目にすると、応援せずにいられなくなる。
そうした心理は、彼女の多くのフアンにもあるものとは思うが、私の場合、誠に恥ずかしながら、自分としては、アスリートとしての共感があるように思えている。その共感というのは、「修練」への共感とでもいおうか。自分もささやかながら、トライアスロンという修練に向かうなか、オリンピック選手への、一流のアスリートへの、人間としての尊敬の念といったものが芽生えてきた。
あそこに行くまでにどのような努力を積み重ねてきたのか。しかもその努力の積み重ねが一瞬にして崩れてしまうこともある。特にモーグルなんて競技はアクシデントの要素が極めて大きい。それを前提に向かっていく人々の勇気に心うたれる。
こうした心境は、年寄りの趣味とはいえ、トライアスロンを始めて初めて知ったことだ。
始めてみることで知ることは実に多い。というよりも、私たちは始めてみることでしか、何事かを知る方法はないのかもしれない。こうした考えも、いま、こうして書くことを始めてみることで知ったことなのだ。
踊るよう 滑り降りるや 美しき
息をつめ 雪のカナダに 思い込め
私のバンクバーオリンピックはもう終わったような思いでいる。

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