金曜の夜は寿司屋で楽しく呑んだ。寿司屋で呑むのは好きで、それが楽しい相手であればなおさらだ。会話ははずみ、好きな熱燗をいただき、それでも9時前には帰宅して倒れるように就寝。翌朝土曜日は6時にめざめたが、酒が抜けていない。それがためかひどく疲れた感覚があって、8時半からのトレーニングへの気が進まない。そんなに呑んだわけでもなく、充分過ぎるほどに寝ている。元気はつらつで目覚めてもいいように思うのだがそうではない自分にちょっと嫌気がさしたほどだ。
水泳、バイクのトレーニングをどうにかこなして、家で一休みのあと、4時過ぎには、久しぶりに新宿へ出て歓談。キリンシティのビールがうまかった。歌舞伎町に出てホッピーとホルモン焼。10時には帰宅して12時前には就寝。
今日、日曜の目覚めは8時。こうして書いていてもよく寝ているなあと、我ながら感心するというか、呆れるというか、いい歳をして莫迦みたい。
本来であればスイムの自主練に出かけるところだが、腕がしびれているので、お休み。家の掃除と片付けをすませると、もう午後の3時。ランにでかけたのだが、腕のしびれと疲労感で続かない。仕方なく、3キロを走ったところで、インターバルトレーニングに切替え、江戸川沿いで、約100メートルのスピードランを5本で終了。家へと帰るのも歩きとなってしまった。
帰宅してシャワーを浴びて夏みかんを一つ。1時間ほどウトウトして整体院にでかけたら、何とお休みでガッカリ。
何を言いたいのかといえば「どうも調子が出ない。腕が痛い。疲れている」ということ。あるいは「日一日のけじめがつかない」ということ。疲れというのはもちろん肉体的な疲労で、その疲れを取り除くには規則的な食事と睡眠につきることはよくわかっている。だから今日は呑まずに早く寝て、明日の朝を楽しみに待つとしよう。幸いにして、昨日から読み始めた吉村昭の戦艦武蔵がおもしろい。
寝る前に最適な本の条件は「いつでも本を閉じてライトを消す」ことができること。先が楽しみで目がさえてしまってはいけない。かといってつまらないのでは話にならない。特に大切なのは文体で、きびきびと簡潔で緊張感のある文体は子守唄のように気持ちをなだめてくれる。戦艦武蔵は今の私のその条件にピッタリだ。
さて再び、何を言いたいのかといえば、肉体的な疲労をコントロールする方法は分かっているが、1日のプログラムがコントロールできていない。疲れを理由に徒に弛緩している自分がいる。「日一日のけじめがつかない」ということはそういうことだ。
ここまで書いてきて、肉体的な疲労の背後に「仕事」の影が大きく広がっていくことに気づく。このブログは仕事のブログではないので委細ははぶくが、いま、自ら始めて継続しているとても大切な仕事と、依頼されてこれから取組む大きな仕事とがあり、問題は「何をどのような手順で行うかを自分で明確に把握できていない」ところにある。要は仕事のプログラムがコントロールできていないのだから、1日のプログラムがコントロールできていないことは当然なのだ。
さて、どうする。
肉体の疲労を取り除き、レッスンのプログラムを進めるように考えてみよう。まず、今日は早く寝る。仕事の書類がとても気になるが、早く寝る。そして明日は早く起きて集中して取組む。その日一日の積み重ねのなかで、仕事のプログラムが見えてくるはずだ。あるいは、それ以外の方法で仕事のプログラムを見つけ出すことはできないだろう。これまでトレーニングの時間を午前にとるべきかどうか、思い悩んできたが、今日の結論としては、午前はまず仕事に集中でいこう。そして夕方以降の時間をより積極的にトレーニングにあてること。そのために夕方に向けてより手早く仕事に向かっていくこと。そしてトレーニングの疲れでぐっすりと休むというのが理想的。よし、これでいこう。
さて、今日の最後に改めて、何を言いたいのか。
仕事とトライアスロンを両立させるということではない。トライアスロンに向かっていくことが仕事のプラスになること、そのようにして暮らしていくこと。それは望みや希望ではなく、老後を気持ちよく生きていくためのいたって現実的な方策であるのだ。
この年齢になっても、「痛みと疲れ」のなかで「迷いと不安」が生まれる。人生はなかなかに難しい。
梅雨来る 思いを新たに 日一日
痛みつつ 疲れに浸る 梅雨の風
明日はまず早起きして今週の予定を立てる。その1週間をイメージしつつ、まずは整体院に行こう。なにはともあれ、肉体的な痛みは除去しなくてはならない。
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