今日は鹿島槍のTTA合宿についての報告のつもりであったが、私のビジネスパートナーの澤井にすごい話を聞いたので、とにもかくにもそちらの報告。なお、年齢や日付などはうる覚えで正確なものではないので、その点はご了解お願いします。
澤井さんのお父さんが85歳で亡くなったお葬式が7月18日。澤井さんのお父さんはその父から受け継いだ製缶業を発展させ、製缶業界のトップにもなられた一方、晩年はその会社を畳むといった過酷なプロセスを経験されており、私からみれば、まさに戦後の日本産業発展盛衰史そのもののような印象を受ける方。
そのお葬式のあと暫くたち、お父さんの妹さんが、83歳で亡くなったというのが、今回のメインのお話。亡くなった妹さんは、もう身体が弱って兄である澤井さんのお父さんの葬式にも出られなかった。また、家族もすでになく、あまり周囲と親しくしてはいなかったようで、澤井さんとしても、父に次いで亡くなったときいても、さて何をしたらいいのか、といった状況であったように聞いている。
この時点での印象は、83歳で一人さびしく亡くなった市井の老婆の物語。でも、葬式のなかで明らかになってきたのは、まったく違う豊かな人生の物語。
澤井さんの話によると、妹さんがご主人をなくしたのが、52~3の頃。腎不全で救急車に運ばれ、ほどなく病院で亡くなったのが83歳。約30年の年月の間、彼女は何をしていたのか。そして、誰が救急車を呼んだのか。
彼女の部屋はビリヤードの試合のカップで埋め尽くされていたという。彼女はご主人を亡くしたあと、どんなきっかけがあったか、ビリヤードを始め、それを楽しみとし、腕をあげ、数多くの大会で優勝するまでとなった。60歳、70歳、80歳の女性ハスラーなんて、素敵じゃないか。
そして彼女を救急車に連絡したのは、彼女のボーイフレンドで、彼は最後まで、彼女をみとったという。親戚のだれもそのボーイフレンドの存在は知らなかった。澤井さんのいうところ、彼女より2歳ほど年長の普通のおじいさんであったという。彼女と最後を看取ったボーイフレンドはどこで出会ったのか。わからないけど、きっと玉突き場だよね。そして彼は最後まで彼女のそばにいた。
それだけだはない。彼女は俳句の会にも入っており、亡くなる一週間前に、彼女の辞世の句が俳句の会で発表されたという。辞世四句のうち、一句は、地元にできる東京スカイツリーを読み込んだものであったという。きっと83歳の彼女は死を前にしても、「現代」を見ていた。まさに映画にあるような人生ではないか。
この話を聞いて、最近たまたま見たテレビ番組を思い出した。それは終戦記念日の記念番組でビートたけしが出ていた。おまり覚えてはいないが、そこでは次のような女性の一生が描かれていた。
戦前に浅草で踊り子になり家族を支えるが、男運に恵まれず男子を出産するも生き別れ。その後戦争となり、戦後はストリッパーから、身体をうるまでに身を落とし、いまは見る人もなく、意識不明で一人ベッドに横たわる。生き別れた息子はその後成功して政治家となるが、入院の費用は出しても、一度も見舞いに来たことはない、というもの。
このテレビ番組では、そうした「女の一生」をひとつの典型として描いたわけだが、私がテレビを見たときの印象は「作り物人生の不自然さ、不愉快さ」であった。いかにもありそうなパーツを集めて、ホイっと投げ出したようないびつな物語。そうした一生を送った人はいないとは言わないが、テレビで「典型例」として示すには、「あざといなあ」というのが私の印象。
一方、おそらくテレビの不幸な女性と同じ年頃の、誰も知らなかった、澤井さんの叔母の晩年の豊かさとリアリティはどうだろう。
澤井さんと話したのは、それは特殊なものではないということ。普通の名も無き人は、このような形でそれぞれに、形こそ違え、豊かな人生を過ごしている、これが人の世であるということなのだ。
それはマスコミがとりあげるようなものではない。事件もない。すべてがひっそりと落ち着いているため、誰も気がつかない。だからこそ、二人の間には誰も触れることのない世界が育っていく。
彼女の人生は、56歳で妻を亡くし、トライアスロンに向かい、下手な俳句もどきに向かっている私への大きな指針となる。私は彼女に仲間を見つけた思いがした。
だからといって、いま、私がガールフレンドを求めているわけでもないが。
夏の暮れ 落日の火に 足を見る
鈴虫の 鳴く声耳に 残る日を
今日はとてもいい話を聞いたので、皆さんに、ぜひ、お伝えしたかった。
この驚きと、人生の歓びを、分かち合いたかった。
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