ロンドンオリンピックが始まった。昨日は6:30からATAのランのトレーニングなので4:30に起床し、出かける準備をしながら、落ち着かない状態で、6:10までテレビで開会式を見て、トレーニングに出かける。
トレーニングは6:30から8:00までのラン、8:30から1時間のスイム。そのあと10:00から12:00まで、バイクの自主錬にでかけた。昨日ははムッとする空気とからみつくような陽射し。まさにうだるような天気で息苦しいほどだ。ちょっと動くだけで全身から汗が噴き出す。眠りが浅く、体調不調で、ランのトレーニングの苦しいこと。続くスイムでは両方の足がつりそうでおっかなビックリ。最後のバイクはさすがに消耗して約25キロ程度、足慣らし程度でいっぱいいっぱいとなった。
帰宅して冷凍チャーハンとビール。14時から改めてBSで開会式を最後まで見る。しみじみと「オリンピックはいいなあ」という思いに浸った。もともとスポーツ観戦が好きで、オリンピックフアンであるが、今日は開会式で競技ではない。イベントを商いとする人間として大いに興味をもって開会式をみたが、演出に胸打たれたのかといえばそうでもない。むしろやや冗長な印象が強い。いかにも映画監督らしく、ストーリー性と細かなカットを積み上げるモンタージュ的な手法が目についたが、それがためか線の細い感じがあり、ストレートなインスピレーションに物足りなさを覚えた。
では何がそんなによかったのか。それは開会式全体で示された「肯定的な感情」であることにテレビを見ながら気がついた。人間の努力、対戦相手への敬意、明日へと向かっていこうとする意志などが、「肯定的な感情」をもって語られ、世界から集まった人たちに祝祭という形で共有される。これが気持ちよい。生きることをたたえる幸せな満足感が自然と湧き上がってくる。
大会委員長のセバスチャン・コーの歓迎の挨拶には、そうした明日へ向けた「肯定的な意志」にあふれており、胸にしみた。演出についても「イギリス人とは何か」を世界に示す「肯定的な意志」に貫かれていたことに好感をもった。ここには愛着をもって時を振り返り、多くの困難を受け止めて静かに前を向く大人の態度があった。これがイギリスというものなのだろうか。であれば、この国は衰えたとはいえ、強いよなあ。
言い換えれば、いま私たちの社会にはなんと多くの「否定的な感情」が渦巻いていることか。皮肉、冷笑、嫉妬、恨み、訳知りの下品な解説と幼稚な自慢、自己主張。
ちょっとネットをのぞいてみよう。多くの掲示板やブログでは怨嗟の声が満ち溢れている。
今回のオリンピックが、ロンドンにとって、イギリスにとって、世界にとって、日本にとってどのような意味をもつのか。というよりも、私たちはそこにどのような意味を見出すのか。
ギリシャの経済破綻の大きな原因の一つはオリンピックであったという。今回のオリンピックでも、ロンドン東部の経済開発の意義が説かれる一方、このオリンピックは多くの社会的課題を覆い隠すものであるとの批判も目にする。
しかし、私たちはこのオリンピックを「肯定的な感情」をもって見つめるのか、「否定的な感情」をもってみつめるのか。選手たちの笑顔をみて自らの勇気とするのか、嫉妬と怨嗟を沸き立たせるのか。あるいはこれをスポーツの世界のお伽噺として訳知りな批判を加えるのか。
それは私たちの社会をどのような感情と意志をもってみるのかということにつながっていく。私たちはこの社会から逃れることはできず、問題のない社会があるはずもないのだから。
この夏は オリンピックに 酔いしれて
夏最中 噴出す汗を 散らして走る
オリンピックに出場する選手たちが、自らのやるべきことを最大限の努力をもって成し遂げたこと、会場の建設から運営警備にいたるまで、多くの人々が自らの業務に取組みこの世界の祭典を創りあげてきたこと。それらを「肯定的な感情」をもって受け止め、それをたたえ、楽しみ、私の明日への力としたい。オリンピックには力がある。
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