2015横浜トライアスロンの報告1 私の横浜への思い入れ。

トライアスロン
2015年横浜トライアスロンの報告です。語りたいこと、聞いてほしいことがたくさんあって、2回の分割になります。語りたいことの多くは個人的な思い出で、トライアスロンの観点からはまったく意味のないことかと思います。すみません。

この横浜トライアスロンについては、私は個人的な思い入れがある。その思い入れは「ニューグランドホテル」につながり、このホテルの前をバイクで疾走することが、憧れであった。憧れというより、使命にすら思っていた。そのことをお伝えする。
私は横浜生まれの横浜育ちであるが、その私が故郷の思い出として、大きな愛着を感じるているのがニューグランドホテルである。私の母親は横浜で生まれ、第二次大戦の戦火を受けてきたのだが「横浜市民はニューグランドホテルに感謝しなくてはいけない。戦後の食糧難の折に、ニューグランドの支配人が、横浜市民は飢えています、といってマッカーサーにかけあって、食料が放出された」という思い出話を、それこそ、何回も何回も聞いて、私は育った。
なお、いま、そのことを歴史的事実として確認しようという気持はまったくない。ただ母はそう信じて疑いがなかった。そして、私にとっても、そのエピソードは、いまだに、横浜を振り返る基点となっている。
次に、話は高校卒業に飛ぶ。私の卒業した高校では、卒業式は午前、そして夕方からニューグランドホテルで謝恩会をするのが通例であった。おそらくいまもそうであろうことを願う。卒業の前に、ホテルでテーブルマナーの講習もある。要は、社会人としてのスタートを飾るのが謝恩会で、午前の卒業式は制服であるが、謝恩会では、背広、ないしカクテルドレス姿となる。ちなみに私の高校では、1クラス50名のうち、10名が女性という変則的な共学であった。40名の男子が10名の女性を守るといったジェントルマンシップの校風があったかと思う。
なお、私の通った関東学院というと、最近では金沢八景の大学といった認知も広がっているが、私の時代はあくまで、三春台(黄金町)の中高生活となる。
さて、ニューグランドの謝恩会だが、まず基本的に私たちはこのホテルで謝恩会を行なうことに特別な意識をもっていた。謝恩会により、学生から社会人になるという一種のイニシエーションについて、誇りと愛着をもっていた。そして、この謝恩会において、男女それぞれ1名が代表スピーチを行うのだが、なんと、男は私が指名された。指名者は先生方である。なお、女性の代表スピーチは、学校の宗派(バプテスト派)の牧師の娘さんで、話も慣れており、誰にとっても異論のあろうはずがない。
では、なぜ男は私なのか。成績は学年で50位程度でしかない。何か特別な賞を受けたこともない。いたって平凡で特徴のない、ただの男の子であった。ひとつ選ばれる理由をあげるとハンドボール部でキャンプテンであったこと。でも私がキャプテンであった間のクラブの成績はまったくさんざんで、いま、思い出すこともできないほどだ。おそらく適当だったんだろう。
ニューグランドで一張羅の背広を着て挨拶をした。
さらに、初めて付き合った彼女と別れたのもニューグランドであった。その日の待ち合せに彼女は来ることはなく、1時間以上待って、そのあと私がどこに行ったか覚えていない。
ということがあり、私にとってニューグランドの前をバイクで走り抜けるということには、特別な思いがあるのだ。いまは市川の江戸川沿いに住んでいるが、横浜に行くたびに言葉にしがたい特別な郷愁を覚える。
それがこの大会で、一昨年はスイムでタイムオーバーとなり、ニューグランドはかなわぬ夢となった。一昨年はオリンピック距離であったが、今回はその半分のスクリント。これでなんとかニューグランドホテルの前を疾走したい。私の横浜トライアスロンへの夢はここに尽きるのだ。
だから「一度は」の気持ちなのだが、年齢も年齢で、だんだんと衰えていく。よし。今年で決着をつけよう、といった前のめりの気分での参加であった。
春になり 始めよう 私の思い
横浜トライアスロンはスイムの時間制限が厳しい。説明会でも「日本一厳しい」との発言もあった。制限時間は25分。これを目標にいろいろとやってきた。果たして結果は。
無事完走したのだが、細かく見ていくとコトは簡単ではない。
記録を見るとスイムは1分オーバーなのだ。ええ??
詳しくは次回に。
写真は私の走る姿だが、どうもお腹が出てみっともない。
でも、これが私の姿で、私にとって気持ちの良い頃合い体型なのだ。
「私は私」と開き直っている。(笑)

コメント

タイトルとURLをコピーしました