荒い波が何回も続けて寄せてくるが、それでも一瞬穏やかになる波のリズムがある。また波は一律に寄せるのではなく、波と波の間に隙間があり、その隙間を狙うと引き波に乗ることができる。穏やかになった瞬間をとらえ、隙間を狙い足もしっかり使ってエイッと進む。すると波を乗り越えたゾーンに出ることができる。ここに来れば波の上下動はあるが、波頭の崩れはなくなる。
そんな指導を受け、挑戦すること幾たびか。波をまともに受けて仰向けとなったとたんに引き波に足をさらわれ1回転。かなり怖い。こうなるととてもではないが意気消沈。いったん戻って息を整えてのやり直しとなる。そしてついに波を越え、ボードを持って浮くインストラクターの所へたどり着く。達成感を胸にインストラクターと共に岸に戻ったが、大波が来ると、手をつないで潜って波をやり過ごし、ボディサーフの感覚で岸を目指す。なお、インストラクターは女性であり、それもあって、なかなかエキサイティングが体験となった。これもトライアスロンを始めたからで、この年齢でこんなことをしていることになろうとは、考えてもみなかった。無心で遊ぶ感覚か。
「遊びをせんとや生れけむ」は『梁塵秘抄』の有名な一説で、これは無心に遊ぶ子供を見る大人の心境なのか、あるいは「遊ぶことの豊かさ」を示した人生観なのか。人生観としても、たまには童心に戻って遊ぶことの大切さを説いたものなのか。あるは人生の意味は無心に遊ぶことにこそあるという宣言なのか。本来の意味を知る学はないが、私がこと言葉を思い浮かべるときは「人生の価値は遊ぶところにこそある」というイメージを描いている。だからといって「そうだそのとおり」と共感するわけではない。
いま読んでいる「HARD THINGS」という本で、「人生とは苦闘である」という言葉に出会った。カールマルクスの言葉として紹介されている。そして、この言葉に何のためらいもなく「そうだ、そのとおり」と共感してしまう私がいる。
そしてトライアスロンは遊びであり、苦闘である。
何を言いたいのか?
「苦闘もまた遊びとなる」「苦闘がなくては遊びとはいえない」などといった気の抜けた警句を言いたいわけではない。
時として、人生を振り返るときがある。今日の私はそんな心境であったということだ。結論もでないことに、図らずも心を奪われ思いを巡らす。今日はたまたまそんな日であったということだ。
さて、あと1週間をどのようにして過ごすか。今回の本題は「レース前の自己管理」なのだ。昨日のラントレで、右のくるぶしと膝に軽い痛みを覚えたが、まあ、悪くはない。十分なトレーニングを積んできたわけではないが、自分なりの準備は重ねてきた。
仕事についても、先週金曜日5月28日に決算報告を終え、新たな年を迎える感覚がある。「しなくてはならないが、できずに気になっていること」は多々あるが、切迫した締切はない。
ハードなトレーニングは今日で終わり。あとは朝の散歩とストレッチングをポイントとする。朝に目覚めのスイッチを入れ、身体の関節や筋肉に刺激を入れつつ緩めるということだ。アルコールはなし。夜は小食にして早く睡眠する。
五月の陽 いのち駆り立て 走り出す
今日は走り出す前のひと呼吸。
結論を出すのではなく、結論が出るわけもなく。
ゆったりぐるぐると思いを巡らす。
そんな一日も大切に過ごしたい。
決算の状況を見ながら税理士さんと話したことは
「あと10年は走ろう。そのあとはその時に考えよう」
写真は今日の辻堂海岸。
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