オーシャンナビは守屋さんが主催されているスイムスクールで、以前品川のホテルのプールでのレッスンに参加した経験がある。今年はOWSの機会が少なく、先日の沼津駅伝でもスイムは中止となったので、久しぶりに守屋さんに会い、指導を受けて海で泳いでみたいとの思いもあって参加した。
御宿までは津田沼で特急に乗り換えて約1時間。ほとんど寝ていたけど、これは快適至極。駅到着の10分前に目覚めてメールをチェックしてピタリと到着となった。便利ではないか。
さて、今回のテーマはスイム。
スイムは伊是名、横浜と2回もタイムオーバーで足切りに会っている。このブログを読んでいる方にとっては「またかよ」というほどに、スイムに悪戦苦闘する姿を示してきた。
しかし、今年、セントレアでは1.9キロを1時間以内で泳ぐことができた。そして、今回のOWSでは、距離に対する恐怖を、泳ぎだす前も、泳いでいる最中も、感じることはなかった。いつまでも泳ぐことができそうな感覚があった。余裕をもって波を受け止めることができた。新たな地平に立った感覚がある。実に感慨深い。
何を言いたいかといえば、気が付けば、1.5キロを泳ぐことができるようになっていた、ということだ。泳ぎ始めてから5年。なるほど、やっていればできるようになるのだ。
いやいや、何もこのことを普遍化し、続けていけば得ることができるなどど語るつもりはない。続けてやっていてもできないものはできない。私はそう考えている。誰もが努力すればオリンピック選手になれるわけではない。あきらめずに続けていけば、誰もが事業の成功をゲットできるわけではない。もちろんやらなくては、続けなくては何も得られないが、努力を続けていけば何かを得られるわけはないだろう。
なんて、そんなに力を入れるまでもなく、自然とそう思っている。
だから、あんなにできなかったのに、いつしか泳げるようになっていたということは、愉快である。
この愉快な感覚をどう表現したらいいのだろう。なかなか難しい。
単にできなかったことができるようになったからではない。努力が報われたからというわけではない。さらに継続は力であるを示したからでもない。そのことは一面事実ではあろうが、そうした美談は趣味ではない。そう、趣味の問題なのだ。
さて、何が愉快かといえば、なるほど、人間の考えることは人間はできるのだ、ということを自ら体験できたことなのだ。
どこに根拠があるかわからないが、誰かが1.5キロを泳ぐことを考えた。そしてトップアスリートではなく、多くの人がそれをクリアしている。努力目標ではあるが、不可能な目標ではない。そんな人間の営みが愉快なのだ。人間とは面白いと思う。そんな面白い営みに、我が身を題材に参加できたことが愉快なのだ。まどろっこしいかな。でも、そういうことはあるのだよ。
人間の作った目標であれば、多分、続けていけば、気が付くとできている、ということは大いにあるのだ。そんな波に自ら巻き込まれてみることは、愉快なことであるのだ。となると、アイアンマンはどうなのか。私はその世界に行くつもりはないが、続けていけば、気が付くと、そこに立っているのかもしれない。そう思うことは愉快なのだ。そこに向かっていくことは愉快なのだ。
そして、トライアスロンを続けていくなかで、このように、生きていくことの愉快を考えるに至ったことは、これもまた愉快なのだ。
さあいこう 海に向かって 泳ぎだす
OWSの気分は愉快であった。
終戦記念日なので、ひとこと。
私の母方の祖母は横浜大空襲で亡くなっている。私の両親は終戦の1か月前に結婚している。母は「どうせ死ぬと思っていた」と語っていた。その戦争が私を生み出した。
そうした家族の歴史を、子供たちに語り継いでいくことは大切と思っている。
でも毎日を愉快に暮らすことはより大切なのだ。愉快に暮らすことを伝えたい。
新聞でもネットでも、非難の罵詈雑言が絶えない。人を罵る呪岨にあふれている。そういう人は日々どのような気分で目覚め、床についているのだろう。私はいやだね。
小林英雄は敗戦への反省について「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と啖呵を切っている。そして小林英雄の批評とは、ドフトエフスキーであれ、ゴッホであれ、そして本居宣長であれ、「どうして私はこんなにも魅かれるのか」という自問自答に他ならない。私が考える「生きる」とはそのようなことであり、私もそのようにして生きていきたいと思っている。
ささやかながら、このブログは私なりの生きることの考察でもあるのだ。
写真はOWSの最中を撮っていただいた。かなり見苦しいかと思いますが、頭がちゃんと横になっている。いいと思います。
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