なぜ山に登るのか、山に登るとはどのようなことなのか。そもそもクライマー(登山家)とは何なのか。死と隣り合わせの危険とどう付き合っているのか。登山の大切なパートナーの死をどのように受け入れるのか。メンターをどのように引き継ぐのか。そして自ら被った事故、瀕死の重傷をどのようにして克服していくのか。
そうしたことが、当の3人の独白とその友人の解説を中心に淡々と描かれる。3人のうち一人は世界最高のクライマーであり、一人はこの映画の映像を撮影した登山映像の第一人者。いま一人も山の映像を手掛けており、映像の美しさと緊張感は半端ない。この3人や映画制作の状況などについては、ホームページで確認いただきたい。
ここでは「メール」を観た「私なりの感想」をまとめてみたい。語りたい映画というのはあるものなのだ。
この映画で主に扱われるのは「登山と家族・登山と仲間」である。ここには金の話しはない。職場の複雑な人間関係も恋の駆け引きもない。権力との闘いもない。無能な上司もいなければ、熱血教師もいない。扱われる人生はいたってシンプルである。それがために、「愛すること」「信頼すること」「立ち向かうこと」など、人間が生きるうえでの基本的な要素が際立って浮かび上がってくる。
その印象が心に残り、見終わったあとはとりとめもなく、いま見た映像と独白の言葉に頭を巡らすことになる。
そうだなあ。この映画の印象を素朴にまとめると「立ち向かう」ことかな。でも「生きることは立ち向かうことである」と言ってしまうと、ちょっと違う。そこまで思想化してしまうとこの映画のもつ力強さが失われてしまう。もっと素朴に「立ち向かう」ことなのだ。それを素晴らしいと言うのもちょっと違う。映画を観ていると、むしろ、なにもそこまで立ち向かう必要はあるのか。それは英雄的な行為で美しいことなのか、とさえ思える。
3人にとって「立ち向かう」ことがあまりに自然で当然であることに心打たれるのだ。もちろん「立ち向かう」最大の目標はメルーの登頂にあるのだが、その一事だけではなく、3人の生きていく姿勢に、この「立ち向かう」感覚がうかがえる。
3人によるメルーの登頂は、1回目は頂へわずか100メートル時点で「撤収」となる。危険回避による大きな決断であるのだが、観ているこちらは、中止の決断も「立ち向かう」行為として受け止める。そして2回目の登頂の準備を始める。いかに過酷で困難であるかを知ったうえで、あきらめず「立ち向かう」ことに背中を叩かれた思いがする。
この映画には「立ち向かう」人間の魅力を伝える映画であったように思う。無心に立ち向かう。立ち向かうことを当然とし、たんたんとして立ち向かい、その時と気分を楽しむ。その姿に共感をし、私もそのようにありたいと思った。
正月映画に 思いもよらず 立ち止まり
トライアスロンには「立ち向かう」気持ちを喚起する力はあるように思う。立ち向かう気持ちがなくてはレースで前に進むことはできない。我が身を励まし立ち向かっていくことの魅力をトライアスロンのレースは教えてくれる。何も大きな頂でなくともよい。小さなレースでも、立ち向かっていく時を気分を楽しんでいきたい。
そんなことを確認した正月映画になりました。
今年の初映画「メルー」を観て「立ち向かう」ことの魅力に触れたお正月。
「メルー」という映画を観た。人間を寄せ付けないヒマラヤの頂「メルー」の初登頂のドキュメントだ。ただし、映画のキャッチコピーにあるように、これは「登山」の映画ではなく、「登山家」の映画である。メルーの初登頂を果たした3人がその「登山家」である。
コメント