それはとうに失われてしまったものであり、今日の体験は錯覚がもたらしたものであることはよくわかっている。しかし、こんな錯覚の楽しみも年齢のもたらすものなのであろうか。であれば、それも楽しんんで味わうことにしよう。
人生100歳時代という。
人は70歳程度までは、特に健康に留意しなくとも生きていくことはできる。しかし70歳を越えて元気で生きていくためには、それなりの身体ケアが必要になる。ある医師に言わせと100歳時代とはそうしたことだそうだ。私は100歳を目指しているわけではまったくないが、生きているうちは元気でいたい。よって人生100歳時代にトライアストンは大いにお勧めと思う。
そしてもう一つ。いま世界というより、人類は大きな転換期にあり、先のことはわからなという。だから、この時代に求められるのは狩猟民族の生き方であるという。明日の獲物の保証はない。できるだけ身軽な状態にして、常に周囲の環境に柔軟に対応し、日々工夫を凝らして生きていくいくことになる。
妻を亡くし、3人の子供たちはそれぞれに独立し、この南行徳に居を構えた折に、引っ越しの通知葉書に「最低限の荷物で獲物を求める狩人の心境です」との一文を書いた。この心境に変わりはない。もともと明日のことなどわからない。さらに67歳ともなれば、明日のことなどまったくの白地図であり、経験を頼りに、状況を分析し、目の前の狩りに全力を注ぐ毎日である。
そんなつもりはなかったが、どうやら、知らず知らずに、人生100歳時代に適した暮らしを営んでいるようであるが、では我が身として、人生100歳時代をどのように考えておくべきか。
トライアスロンのレースで、私は目標のタイムを考えることはない。最も重視しているのは、安定した呼吸と脈拍と意識であり、記録はその結果である。大切なことは緊張感をもって「前に」進む心のコントロールであり、常に「現在」こそが、貴重な価値となる。実際にスイムでは「現在、現在」と頭のなかで言葉を繰り返している。そしてこの「現在」を支えるものは「過去の積み重ね」としてのとトレーニングあり、ゴールは確かにそこまで行かなくてはレースとして成立しない目標ではあるが、それは絶対に到達しなくてはならないものでもなく、むしろ現在に輝きをもたらすものであり、現在の延長にある「結果」のように思われる。
では「死」はどうだろう。死への恐れなどはまったくない。呼ばれれば「はーい」と気軽に答えて迎えの車に乗る心境である。
となると「死」はゴールですらない。人生100歳、ともかく「いまを元気で生きていく」ことに尽きる。その要諦といえば、私は「日々の時を過ごす快適なリズム」であり、いきなりだが、トライアスロンの魅力もそこにあると思っている。「現在だけに集中して身体の鼓動に耳を傾ける」。そして身体の鼓動とは、感情や思想の揺らぎとも言い換えられる。
したたるや 吹き出す汗が 地に文様
心も身体も気持ちよく汗をかく毎日を送ろう。
ここらあたりが人生100歳の心構えのようだ。
写真は新横浜公園でのラグビーイベントを終えての記念写真。
元日本代表の斎藤裕也さんは明治大学のころから見ていた。
こんな写真が撮れるなんて、去年は考えてもいなかった。
人生は驚きに満ちている。
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