一晩寝て、前回のブログを読み直し、ちょっとヒトコト付け加えたくなった。よろしくお願いします。
私のトライアスロンの実力なのだが、オリンピック距離でなんとかギリギリ完走レベル。スイムで足きりは何回もあり、昨年の千葉市シティもあと100メートルほどで足切りになった。時間制限がなければなんとか完走はできるのだが、相当に下のレベルである。
ちなみにこれまでの最長大会は伊是名大会の88キロで、これも初参加はスイムで目の前50メートルででシャットアウト。2回目で時間ギリギリで完走を果たせた。
先週の土曜日にATAのラントレーニングでは、2,000メートル、1,000メートル、1,000メートルのインターバルであったのだが、2,000メートルで約14分、最後の1,000メートルで6分30秒程度であった。
スイムは25メートル28~33秒、50メートル1分~10秒、100メートルは2分20~30秒ほどもかかってしまう。
58歳ではじめたときからそうであったのだが、レベルとしては一貫してギリギリで、大会のみならず、集団トレーニングをしても、いつも最後尾、それもグループを離れての最後尾である。
トライアストンを始めたけれど、やめた方も少なくないと思う。その多くは「やってみたけどついていけない」、端的には「タイムが出ない」ことにあるかと思う。これがランであれば、一人で練習を重ねてマラソンに出ることは可能であるが、トライアスロンはなかなかそうはいかない。やはりどこかのチームかスクールのお世話になることとなり、私の場合はアスロニアにお世話になっている。
そこでトレーニングに参加したら「ついていけない」となると気持ちもなえるであろう。私の場合は「大きく遅れるが、ギリギリでついていけた」から続いてきた。「わあ、こんなにできないのだ」「もう少しできると思っていた」という根拠のない驚きはあったが、それでも辞めようとは思わなかった。
そのいちばんの理由は「私は生涯スポーツとしてトライアスロンを始めた」ためであると思っている。老いの人生を楽しむために、何か生涯スポーツを探していくなかで、たまたまトライアスロンに出会った。トライアスロンに関心があったわけでなく、熱烈ラグビーフアンであるが、トライアスロンの中継を追いかけることもなく、有名選手の名前にも関心ない。
練習で一人大きく遅れることは愉快ではない。大会で足きりになり一人荷物を片付ける情けなさはなんともやりきれない。
でも、そんなことは関係ないのだ。私が関心があるのは「私自身の生涯スポーツとしての楽しみ」であり、言葉は悪いが「人のことは関係ない」のだ。だからやってこれたと思っている。大会の足きりも、できればホノルル大会のように「足きりなし」が望ましいが、大会の事情もあろう。
そんな気分なので、これまで参加した大会の記録もつけていない。garminの時計をつけているが、それを見ながらトレーニング計画を立てるわけではない。
というわけで、前回のブログで「トレーニングを軸にした暮らしづくり」を書いたが、このトレーニングは「私の暮らし方」であり、「老人の暮らしの技術」ではあるが、「トライアスロンの記録向上、能力向上」を目指すものではない。そして、私にとってのトライアスロンの魅力とは、やはり「すべての完走者が勝者である」という文化にあると思う。トライアスロンは、このようにルーズに付き合っていくことができるのだ。
このこと伝えておきたかった。
とはいえ、そんな私でも、スイムは100メートルを約2分、ランは10キロ約6分ペースを目指している。
この目標は多くの人にとっては当たり前のレベルであり、私にとっては高いハードルであるのだが、こうした目標をもつことは、暮らしの刺激となる。
「トレーニングを軸にした暮らしづくり」とは、こうした目標設定も含め、トレーニングは心身と暮らしのいい刺激となると思っているのだ。
私自身のトライアスロンの実力を考えると、よくピーター・シェーファーの戯曲「アマデウス」を思う。神に祝福された天才モーツアルトと凡才サリエリ。神がサリエリに与えた才能とは、モーツアルトの天才をいち早く見抜く力であった。サリエリは言う。「私はすべての凡人の王である」。
私は一人の凡人として、スポーツの魅力を、トライアスロンの楽しさを語りたいと思っている。
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