私は勝負ごとが苦手である。勝った負けたによる感情の揺れが、どうも身に合わない。1分1秒の記録を目指すのも、やはり身にあわない。スポーツはやるのも見るのも大好きだが、自分の暮らしのなかでは、ハングリーであったり、我を忘れて汗をかいたりという暑苦しい世界が苦手なのだ。人それぞれマイペースで好きにやればいい、という感覚が私の根底にある。
そんな私だからトライアスロンが身に合っていると思っている。
いつも何をやっても大きく引き離されて最後尾であるが、あまり気にせずに、マイペースで楽しんでいる。できないことはできないし、まあ「他人のことは関係ない」のだ。
それなのにスイムのタイムが気になっている。早く泳げるようになりたいと強く思っている。ランもバイクも遅くとも気にはならないのに、なぜかスイムだけはタイムが気になるのだ。
トライアスロンを始めてから、何とか100メートルを2分で泳ぐようになりたいと思った。「人生なりゆき」を信条とする私には珍しく、なぜか目標というものを設定したのだ。しかしトライアスロンを始めて13年にもなるのだが、いまは25メートルが30秒、50メートル1分10秒、100メートルで2分30秒程度か。100メートル2分は遠い世界のことなのだ。
しかし、どうしてスイムだけそう思うのか、この年齢にもなって目標を追い求める日々はどのような意味をもつのか、それはできないことを求めるストレスなのか、あるいは活力をもたらす挑戦なのか。いやいや気晴らしという説もあるぞ。
ということで、スイムを通して、いろいろと思いを巡らせてみたい。
なのであるが、スイムの話に入る前に、このブログを書き続けることについて、いまの私の気持ちを皆さんにお伝えしておきたい。
このブログはタイトルにあるように、もののはずみで、何の経験もなく「58歳でトライアスロンを始めた」メタボ親父のドキュメントとしてスタートした。私のブログがご同輩の刺激となり、トライアスロンを始めたり続けていくうえでの、いささかの参考になればありがたいとの思いがあった。トライアスロンは下手でも、下手なりの体験記が、トップアスリートのの言葉よりも凡人の苦労話が参考となることもあるだろう。そんな考えがあった。実際にこのブログから影響を受けたとの声もいただき、それはそれは大きな歓びとなった。
しかし、いまは71歳となり、トライアスロン経験も13年を重ね、いっこうに上達なく、衰えていくばかりのなかで「ベテラン」などと呼ばれて驚く事態になった。もう「始める記」ではないだろう。では「続ける記」なのか。であれば続けることの何を書いていけばいいのか。
実はそれがよくわからなくなって、ブログも休みがちとなっていた。
そんな状態が続いていくなかで、さてどうするか。
むせかえる まぶしい空へ 盆の煙
「トライアスロンを生涯スポーツとして楽しむ高齢者の心境」を綴っていきたいと思っている。トライアスロンに向かっていくなかで、高齢者にとってのスポーツの意味や楽しさを考え、書いていきたいと考えている。それがトライアスロンに限らず、何らかのスポーツを楽しむご同輩の方々にとって、いささかの楽しみとなれば、大いに嬉しい。
「実録ドキュメント」のつもりでスタートしたこのブログだが、「高齢者の生涯スポーツエッセー」としての再スタートである。
写真は5月5日の丸の内。若葉と日の光が美しかった。
再スタートの気分に似合う写真を選んだ。
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