トライアスロンの楽しみ。暮らし、大会、仲間、そして自己確認。

左足のかかとを痛めてランはまったくの休止。昨日のATAでのレッスンもスイムのみ参加。岩田コーチから「水中ウォーキングは効果がありますよ」と励まされ、ATAレッスンのあとは45分の水中ウォーキング。やっているうちはキツイという自覚はないものの、最後は両足がつってしまい、水の中で立ち往生。その負荷にびっくりした。
「つる」といえば、夜中に足がつったとき「ああ一人なんだ」と思う。昔は隣の妻をたたき起こしてともに足を伸ばしていた。もちろん私がたたき起こされて介抱することも。
「老いとは孤独を受け入れること」ともいわれるが、私が妻を亡くした孤独感に襲われるのは、夜中に足がつることを第一にあげる。
さて今回は、私なりのトライアスロンに見い出した楽しみ。
ひとつは「暮らし」の楽しみで、これはシーズンオフに入るとより明確になる。シーズン中は大会への参加の準備も含めて生活は不規則になるが、オフは落ち着いて練習に向かうことができる。自分で規則的な練習のプログラムを考えながらそれをこなしていくのは楽しいことだ。
これが単に体調管理のためのトレーニングではそうはいかない。やはり大会に向かうことが重要で、その緊張感を含んだ目的意識のなかに一人かみしめる楽しみがある。
次は「大会」、レースそのものの楽しみ。おかげで初シーズンは5つのレースに参加し、いずれもなんとか完走することができた。どの大会も楽しめた。自分がこんなところでこんなことをしている不思議と驚きを楽しんだ。ロタ島でのバイク中のスコールはその白眉だね。そしてランの終盤にいたり、ペースが安定し、足の痛みを感じつつも意気だけは軒昂とゴールに向かう高揚感を楽しんだ。多分、来年はもっと楽しめるようになるだろうと期待をしている。
次は仲間。斎藤祐樹のセリフのもじりではない。共にトライアスロンに挑戦する者としての「仲間意識」だ。練習の仲間、大会で出会った人々など、トライアスロンを始めることで交友関係は大きく広がった。こんなにも豊かな広がりがあったとは考えてもいなかった。当ブログを縁で知り合った方もいる。年齢は最年長の部類だが、それも若い皆さんと一線をおく感じでいいと思っている。
まさに「社交の楽しみ」である。「社交」とは人あたりのよい人間になることではない。「社交の場」に「社交の一員という立場」で参加することなのだ。トライアスロンといスポーツにトラアスリートとして参加することなのだ。それを自らの体験で確かめた。
ちなみに、この数年で私がもっとも影響を受けた本は山崎正和の「社交する人間」である。ついでに、早稲田実業の父母の会会長をつとめた縁で、斎藤選手は夏の東京都予選から見ており、甲子園の決勝戦も見に行き、ご両親にご挨拶したこともある。いろんなことがいろいろにつながっていくということ。
最後は自己確認。生理と肉体を通して、パフォーマンスを通して、人との出会いを通して、レースを通して、それをこのように書くことを通して、さらにそれらのすべてを暮らしの中で整理して組み立てていくことを通して、自分を確認することが、私には大切なことになっている。
ここまで書いてきて思い出した。映画「ショーシャンクの空」の原作であるスティーブン・キングの「刑務所のリタ・ヘイワース」に「希望とはいいものだ。おそらくいちばんいいものだ」という主人公のセリフがある。漫然と自己の内を眺めていても、嘆いてみても、なにもわからなければ希望も生まれない。何より歩いてみることなのだ。見る前に跳べ!それもひとりで跳べ!
いま、初シーズンの終わりに、そんなことを確かめている。
年の瀬に ひとつふたつと 振り返る
来年へ ひとつふたつと 整える
「ととのいました」の流行語になってしまったのは不本意だが、ほかに思いつかないのは困ったなあ。
このブログは日常の些事ではなく、写真はなく、できるだけ実用に供することのできるように細部にこだわるがために文章の量が増え、最後は下手な俳句もどきでおちのつかない逃げをうつということを信条としてやってきたが、ここらで「始める記」の第一ラウンドは終了かなと思い始めている。
できれば第二ラウンドは少し違うスタイルにしてみたい。写真も入れてみようかとも思っているが、検討中。
お読みいただいている方は、引き続き、よろしくお願いします。

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