今日はバイク錬で久しぶりに落車をしてしまった。江戸川の河川敷から土手に向かって坂を登り、登りきったところでキュッとUターンをしたのだが、ペダルを踏み込んだところで、目の前にママチャリのおじさんと子どもが並んで走っており、オッと、よけようとしたら、おじさんもそちらの方向に進み、あわててブレーキをかけると、アッという間に立ちごけとなった。
腰を強く打ちつけ、実に痛かった。おじさんも焦って「大丈夫ですかあ」と手を差し伸べてくれ、後ろに続く仲間も声をかけてくれ、ちょっとした集まりとなって恥ずかしいこと。
まずは息を整え、「先に行って」と仲間と離れ、ゆっくり走ってジムに帰り、お風呂につかって人心地。でもまだ痛い。家に帰り、痛みをこらえて洗濯機をまわし、冷凍チャーハンをチンしてビール。ソファーに横になったら、痛みと疲れと寝不足で、なんと5時ぐらいまでうつらうちらとしてしまった。とりあえずトクホンを張ったけど、まだ痛い。明日はどうなっているのだろう。
さて、今回の本題は、村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』をめぐる私の心の小冒険。どこから書こうかと迷ったが、まずはこれを書いておいたほうが、素直に先に進めるようだ。
実は村上春樹の小説はひとつも読んだことがない。はっきりとは覚えていないが、おそらくエッセイも雑誌の掲載を目にとおすぐらいで、買ったことがない。年齢も近いのでデビューした頃からそれなりに関心をもち、雑誌や新聞での文章などは目に通していたものの、一歩踏みこむことはなかった。なぜだろうとも思っていた。
そのままでいるうちに、村上春樹の人気や評価が高まるばかりで、そうなるとヘソが曲がって「読むもんか」といった気分になってここまできた。『走ることについて語るときに僕の語ること』も知ってはいたが、読んでみようとは思わなかった。
そんな状態で、今回の経験だが、おおづかみな第一印象は、村上春樹は実にまじめでストイックな努力家で誠実であるということ。それが文章に一つ一つに刻印され、穏やかな調子であるが、私としては息がつまるようでもあった。
私の周囲のトライアスロン仲間も、まだこの本を読んでいなければ、ぜひ一読をお勧めする。多くの人は多分、走ることへの真摯な取組みに多くのことを感じるだろう。トレーニングや走る状況を描くある部分には共感をし、励まされ、より意欲を高めていくことと思う。私もそうした気分になった。
と同時に、なぜこれまで村上春樹を読んでこなかったか、一人納得するところがあった。「ああ、このまじめさ、誠実さ、やさしさが苦手なのだ。息苦しいのだ」。読んでいて落ち着かず、ペタペタぺタとまじめのつっぱりをうけ、無抵抗のままに土俵際まで後退していってしまうのだ。だって何の反論、異論もないのだから。
私はたいした読書家ではないが、馴染んでいる作家は、山田風太郎、谷崎潤一郎、現代作家では色川武大と桐野夏生、エッセーは山本夏彦といった具合。私はいたって平凡な常識人だが、これらの作家の「毒」が好きで、それが心地よい。スーッと溜飲をさげるところ、ニャッと笑うところといったカタルシスがお好みだ。
一方『走ることについて語るときに僕の語ること』はとても丁寧な文章で、思わず襟を正してしまうのだが、そうした陶酔は得られなかった。
多分、人間の性向として違っているのだろう。ただし大きく違っているのではなく、おそらく(そんなことはあり得ないが)お酒を呑んだら楽しく話せると思うが、基本的に違う村人であろう。
何も作家論を語るわけではないので、この話はここまで。ただし、これから書くものはそうした心境のうえでのことであることを伝えておきたかったということだ。村上春樹フアンの方々には実にデリカシーを欠いた内容となるのではないかと恐れているが、何がデリカシーを欠いているのかがよく承知できていないので仕方ない。
『僕自身について語るなら、僕は小説を書くことについての多くを、道路を毎朝走ることから学んできた』(122ページ)。
この本で繰り返し語られ、全体の基調となっているのが走ることの意味であり、走り続けるためになされるさまざまな努力(日々の過ごし方)の意味である。走ることは小説家村上春樹にとってどのような意味があるのか。村上春樹フアンにとっては創作の魅力に触れる貴重な一冊となろうが、こちらはそこまでの思い入れはない。
でも、意味を問い続け、レースに向けて丹念な準備を重ねるその姿勢には、アスリートとしての触発を受けた。「やっぱりがんばっているんだよなあ」という感想である。
村上春樹のトレーニングと比べれば、なんと私のトレーニングのちゃらんぽらんなことよ。これでは村上春樹もただの同年齢のアスリートおじさんとなってしまうが、「私もしっかりやらないと」「少なくとも週に5日は走らないと」など、実にベタな刺激を受けた。励まされた。そこに文学的、人生的な意味を見出すより先に、恥ずかしながら、これが第一の感想なのだ。
木枯らしの 音が問うかな なぜ走る
寒空に 家を出れない 走れない
村上春樹は「走りにでかけない理由は山ほどある」といっている。
はい、そのとおりです。
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