『走ることについて語るときに僕の語ること』をめぐっての最終回

『走ることについて語るときに僕の語ること』のなかから心にひっかかったいくつかのフレーズを書き出してみる。
『毎日集中して物語を書けるというのがどれくらい素晴らしいことなのか(そして大変なことなのか)、身体全体で会得できた。自分の中にまだ手つかずの鉱脈のようなものが眠っているという感触も得た』
これは走ることについてコメントされたものではないが、「毎日続けることで身体全体で自分の中の鉱脈を発見する」という考え方に共感した。
身体全体で発見するといっても、自分の身体能力や体力を開発するわけではない。身体を動かすこと、肉体を管理する生活を維持することによって、これまでに得られなかった、あるいは確認していなかった発想や意識を見出して自覚するということだ。私には思考は肉体によって支えられるという感覚がある。
トライアスロンを始めるにあたって、私を駆り立てたものとは、肉体を通して、日々のトレーニングの中で、まさに村上春樹の言う、「手つかずの眠っている鉱脈」を揺り動かしてみたいといった意欲であったかと思う。
『与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというもものの本質だし、それはまた生きることの(そして僕にとってはまた書くことの)メタファーでもあるのだ』
この文章で素直に共感した部分は「個々人の限界」への認識だ。次いでひっかかったのは「有効に自分を燃焼させていく」という部分。とくに「有効」という言葉に考えさせられた。この「有効」とは「燃焼」にかかるのか。あるいは「自分」にかかるのか。では「自分」にとって「有効」であるとはどのようなことなのか。そのようにして頭はめぐっていく。
このように書いてきて、はたと気がつく。私はおそらく、この年齢となり、自らの終焉という否応もない限界を前にし、身体を動かし、鍛えることで、自分でもいまだよくわかってはいない、自らの可能性を探っていくという冒険に囚えられたのだ。
これが「可能性への冒険」であるならば、より手付かずで過酷なものに魅せられるだろう。だからトラアスロンであったのかもしれない。
また「有効」であるとは「燃焼」でも「自分」でもあるとともに、社会とのつながりにおいて「有効」という意味も含んでいると考える。社会とのかかわりにおいて、自分自身にとって、有効な燃焼のありかたを見出して続けるとことと考える。
一方、次のような言葉も身に沁みた。
『それに比べると僕は、自慢するわけではないけれど、負けることにはかなり慣れている。世の中には僕の手に余るものごとが山ほどあり、どうやっても勝てない相手が山ほどいる。しかし彼女たちはまだ、そういう痛みをあまり知らないのだろう。そしてまた当然のことながら、そんなことを今からあえて知る必要もないのだ』
トライアスロンという「可能性への過酷な冒険」に乗り出して、私がまず経験したのは「負けること」にほかならない。「こんなことができるのだ」ではなく「こんなにもできないのか」という現実だ。
人生において、私も村上春樹に負けないぐらい負けることには慣れているつもりであるが、運動の負けは見事にハッキリとして呵責がない。一人大きく引き離されるというのは気恥ずかしいものだ。最近はテレビで陸上競技を見ても、大きく周回遅れになっている日本選手などをみると、なんともいえない愛着を覚え、その苦悶の表情に見入ってしまう。
こうした「敗者の自覚と共感」という心境を得たことが「可能性」であるとの言い方もあるかもしれないが、私はそれでは物足りない。トライアスロンを通して持続性が高まり我慢強くなった、いくぶんは社交的になったなど、いくつかの自覚はあるが、いまのところはまだ「可能性の鉱脈への冒険」の最中であると思っておこう。そのほうが気持ちがよさそうだ。
この本を読んで確かに影響を受けたことがある。ほぼ毎日走るようになった。村上春樹は1日に10キロというが、私の場合、10キロを走ると1時間の昼寝が必要になってしまう。10キロは休日のみで、江戸川沿いを5キロ走っている。
昨年は足底腱膜炎でほぼ走れず、体重が増えたままシーズンに入ってしまった。肉体としてトライアスリートではなかったことを大いに反省している。今年のシーズンオフはしっかりと走りこみ、体重、体調を管理したいと思っている。
木枯らしが 胸を冷やして 前を向く
まばゆい陽 小春日和の ランニング
陽をうけて、前を向いて、走っていくのは、気持ちのいいものだ。
気分は冬の空気のように、カラリとしている。

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