一つはトレイルランナーの鏑木毅の言葉。
「自分のなかにリミット(限界)をつくってはいけない」
番組は午後6時25分~NHK BS1「ラン×スマ~街の風になれ」。
これは私にはなかった心構えだ。これが第一印象。
練習の時から自分のなかで限界をつくらない。あるいは限界をつくらないトレーニングをする。そしてレースに臨む。限界をつくらないことで、より大きな可能性を広げ、そのことが大きな満足をもたらす。この満足は、限界をつくらない、あるいは限界を乗り越えたことによって初めて得られるものである。
鏑木氏がこのように言ったわけではないが、テレビを観た私の理解を言葉にするとこういうことだ。
さすがに世界で活躍するランナーだけあって、一市民トライアスリートとは心構えが違うなあ、というのは平板な見方であり、この心構えには、プロもアマチュアも問わず、スポーツを楽しむことの本質があるのではないか、と思うのだ。
書いていて思い出した。
以前に、トライアスリート仲間(女性)に「血反吐を吐きながら追い込むとそこに世界が広がる」といった話を聞いて驚いたことがある。その時は「なんだかマゾっぽいなあ」と軽く受け流してしまったが、この発言もとても深いものなのかもしれない。なお、彼女はとてもハイレベルで素敵である。
二つ目はNHK BS1「ゆず・北川悠仁が見たオリンピック」。
41歳の女子体操選手ということで注目された、ウズベキスタンのチュソビチナさんの言葉は「挑戦する私が好きなのでこれからも続けていく」というもの。
この言葉は理屈なくストレートに心に響いた。
ポイントは「挑戦している自分が好き」であり「それが自分らしい」と自覚していく生き方だ。
私もこの年齢でトライアスロンに向かっているためか「挑戦する人」のように思われているところがあり、それは悪い気分ではないのだが、実は「挑戦している」、あるいは「挑戦しようとしている」自覚はほとんどないのだ。単に「やりたいことをやっている」のであって、挑戦という言葉は身近にはなかった。
しかし、「挑戦している自分が好き」という言葉には、聞いた瞬間に理屈抜きで憧れた。
軽薄であるが、「よし、オレもこの線でいってみよう」と強く自覚してしまった。人生は驚きの出会いに満ちている。(笑)
さて「限界をつくらない」だ。
これまでの私は「無理に限界に挑戦しない」ことを肝に銘じていた。
楽しみでやっているので、苦しむためにやっているのではない。
無理して限界に挑戦して心筋梗塞にでもなったらどうするの?
限界を越えた挑戦なんて汗臭いのはオレには似合わない。
そんな考えであったのだが、これは考えなおしたい。
今日は曇り空で気温も下がって絶好のランニング日和。江戸川沿いを1時間走り、右ひざの傷み具合を確かめた。走り始めて10分で息があがって苦しくなるが「限界をつくらない」と言いきかせる。その後、走っているあいだ、「限界をつくらない」の言葉が頭のなかでリフレインする。「限界をつくらない」と呟いてスピードをあげてみる。なるほどなあ。無理に追い込むのはなく、やる前にできないとは思わない。もうできないと思わずに、できているなら続けていこう。もうちょっとアップしよう。そんな感覚かな。
この二つの言葉を重ねると「限界をつくらない挑戦」となる。
ここまでくると、これはトライアスロンには限らない言葉となる。
そのまま仕事の心構えになる。
死ぬまでの人生の処し方になる。
この風は 秋に出会った ランニング
どの本か、誰の言葉か。勝手に江藤淳かと思うのだが、学生時代に出会った「息をするように生きる」という言葉を強く記憶している。しかしその意味するところがわからなかった。いま、ようやくわかったとまでは言わないが、私にとって「限界をつくらない挑戦」という言葉は「息をするように生きる」ということに近いものを感じている。楽に生きるのではなく、自分にとって居心地よく、生命としての力をもって生きることなのだろう。
写真はチュソビチナさん。目力が素敵だ。
ネットからとったものだから著作権は問題かな?
最後に、ひざの具合はだいぶいいようだ。明日の朝に改めて確かめよう。
これなら99トライアスロンに行けそうかな。
限界をつくらない挑戦をしてみよう。
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