ちょっと真面目に、高齢者スポーツ論。キーワードは「過度」への快楽。

トライアスロン

このところ体調報告のようになっているが、その続き。
スポーツには身体の故障や痛みはつきものだと思うのだ。ましてや60歳を過ぎてスポーツを続けていこうとすればなおさらのことだろう。
薬局などに行くと、高齢者のための健康維持のパンフレットなどをよく見る。
散歩など、適度な運動が推奨されてるが、トライアスロンのようなスポーツが推奨されているわけではない。それはそうだろう。
そもそも、スポーツとは「過度」な要素を内在させているものであり、そこにこそスポーツの楽しさがあると思うのだ。もちろん「観るスポーツ」の楽しさは、常人ではなし得ない「過度」に鍛えられた身体であり、技術であり、チームプレーにある。
一方の「するスポーツ」にも「過度」なことに自ら囚われていく心理があると思う。
日常の生活では味わえない「過度」な身体の動きがもたらす快楽がある。走っている苦しい時間のなかで突如訪れるランニングハイも「過度」への陶酔だ。そして苦しさの結果で得られるゴールの達成感も「過度」であるからこそ、その魅惑が生まれるのだ。
そもそも、日々練習を積み重ねて向上を楽しむという行為そのものが「過度」なことへの楽しみを孕んでいるではないか。

60歳も半ばを過ぎてスポーツを続けていくには、何らかの心の整理や納得というものがいる。スポーツという「過度」なことを日常に取り入れることは、老化や臨終という言葉が身近となった者にとって、なかなかに刺激的な緊張となるのだ。
オリンピックが近づくなかで、スポーツを語る場面に出会うことが増えている。「プレイ」や「遊び」といった開放的な、あるいは肯定的なトーンで語られることが多く、それはそれで反対ではないのだが、私としては「あまりに素朴な人間肯定論」に思えて鼻白む思いがする。
スポーツとは年寄りの健康維持の楽しみではない。日暮れへと向かう黄昏の光に包まれながら、自らの心身に「過度」な刺激を打ち込む快楽なのだ。緊張感をもって暮らすことは気持ちがよい。たとえそのことによって身体の故障や痛みが生まれても、それも「過度」な楽しみのうちにあるものなのだよ。ちょっとMかな?
5月18日のブロック注射以降、腰の痛みは治まっているが、膝の痛みは続いている。治まっていく方向にあるが、太ももの内側に痺れが走り、階段を下りる際に、膝が痛む。困ったことに、右ばかりでなく、左足の膝も、わずかだが、痛むようになってきた。
腰ばかりでなく、左の首、肩、腕が痺れている。顎をあげると肩が痛む。こちらの原因はバイクの姿勢。要は身体がめっぽう硬く、痛みやすいことが基本にあるのだ。以前、トレーナーの方に「とくこれでトライアスロンをやっていますね」とまで言われたことがある。そう、やってはいるが、正直なところ、歯痒いよな。
さて、この事態にどのように向かい合っていくのか。
前回のブログでも確認したように、ペインクリニックで痛み対応をしつつ、マメに身体を動かしながら回復に努めることになるのだが、手加減の具合が難しくて1回失敗している。ポイントは無理をしないこと、となるのだが、実際のところ、どこからが無理なのかがわからない。
困ったことに、どうしても「過度」に走ってしまうのだ。
肌を刺す 五月の光が 命かな

トライアスロンを始めて最もよかったのは、自分の体調と機能に敏感になったことと思っている。老化とは体調と機能の変化、ないしは低下である。「体調」とは自分で感じる身体の総合的な感覚であり、自分と向き合うバロメータだ。
写真は、昨夜の我がトライアスロンチーム、ATA南行徳のキックオフパーティ。この年齢になってこうした仲間とともに酒を呑む幸せをかみしめる。そこでの会話で、仲間の一人から「会社の同僚がこのブログ見つけ、刺激をうけてマラソンを始めて10キロ以上減量した」との話を聞いた。嬉しい限りだ。

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