ラグビーワールドカップの記憶。その5 「楽しむ」ことが価値となって世界を変えていく

オリンピック

振り返ればラグビーワールドカップは「国際スポーツ大会」を越えた「祭り」であったと思う。
試合は勝つことが価値となる。しかし「祭り」は勝つこと以外も価値となる。
試合のなかで観客は受動的存在である。しかし「祭り」では観客も積極的な参加者となる。
試合はアスリートファーストとなる。それはいい。しかし「祭り」は皆で楽しむものでアスリートもその一員である。私はアスリートファーストを当然のこととして語ることに違和感を覚えている者である。アスリートはどう思っているのだろうか。
試合後に選手が家族を腕に抱いて観客に挨拶する。これはラグビーでは見慣れた光景である。
今回の大会でも、トンプソンルークが、アイルランド、ウエールズの選手が、子供を腕に抱いて場内を巡った。
子供の前であれだけ激しく闘ったあとで、観客と同じ家庭人に戻るのだ。
ラグビーには国際大会とはいえ、日常生活の「のどかさ」がある。
イングランド、スコットランド、ウエールズ、アイルランドというチーム編成はサッカーも同じだが、ラグビーではアイルランドは国境を越えて南北一体である。フィジー、サモア、トンガという南太平洋の小国が自国の誇りをかけて独自の個性を爆発させる。その頂点にあるのはニュージーランドであり、南アフリカだ。ともに国際政治経済の舞台での主役ではない。ここは強国が対峙して国の威力を見せつける場ではない。
そしてチームの編成は多国籍である。しかし国への愛着こそがチームの誇りとなっている。私たちはこうした「ONE TEAM」の姿に「ダイバシティー」とはどのようなことなのかを見る。
私はラグビーチームは基本的には「ラグビー好きな仲間たち」を価値にして成り立っているように思える。そのチームのバックボーンにあるのが、仲間が集まってラグビーを楽しむことできる土地への愛着と尊敬ではないか。なんといっても、日々その土地に転がり、土をなめるのだ。私は勝手にラグビー選手に農夫の姿をみている。
ここでラグビーを楽しむ仲間が集まって遊んでいるうちにチームができてそれが自然と大会となる。「ここ」はチームを育てる地域社会という土壌であり、「ここ」と「ラグビー」は不可分なのだ。
ラグビーにはそんな子供時代の記憶を思い起こさせる「素朴」なテイストがある。
こうしたラグビーの特性が、このワールドカップを「祭り」としているように思う。
しかしラグビー以外のスポーツにも「祭り」の芽はあり、水をやれば花開くはずだ。

ささやかながら、ここで私のトライアスロン体験を挟みます。
沖縄の伊是名島で開催されるトライアスロン大会がある。高校は本島に行くためボランティアは小学生に中学生である。スイムでサンゴ礁を泳ぐ、バイクでは島をめぐる。ランでは島の山道を走る。沿道では、子供からおじいちゃん、おばあちゃんまで、総出でで声援をおくってくれる。大会の夜は体育館で参加選手も大会関係者も泡盛を飲んで踊りまくる。なんと子供も一緒に踊るのだ。そう。盆踊り状態。さらに宿泊先である民家に戻り、家の方々と島唄をうたう。まさに年に一度の島をあげての祭りである。
この大会に参加した者の意識としては、レースに出たというよりも、村祭りに神輿を担ぎに来た感覚であった。これは実に新鮮な体験で嬉しかった。もちろん国際大会とは比較にもならないが、ここには選手と観客が同じ地平に立って祭りをつくる一体感がある。

このブログでは、何回も「楽しむ」という言葉を使った。
団塊の世代の名づけ親である堺屋太一は、googleが出現する以前に「これからは選択のコストを下げることが価値となる」と予測した。慧眼恐るべし。そして、「明治は強い国家を目指した。戦後は豊かさを目指した。これからは楽しさを目指すべき」と指摘した。
スポーツは楽しさをもたらす。それはわかっている。しかし今回のラグビーワールドカップは、他の国際競技とは何かが違う楽しみもたらした。それはラグビーそのものの面白さ、日本の快進撃。いや、それだけではない。それだけではないことを考えて、このブログ連載を書いてきた。
それはスポーツのもつ「祭り」の豊かさである。
この大会は「祭り」としてのスポーツ大会の魅力を、「スポーツ大会を祭りに育てる」気づきを与えてくれたと思う。

スポーツは楽しいものだ。スポーツには様々な楽しみがある。
しかし、皆が楽しむためには、それなりの配慮、工夫、創意が必要なのだ。
ただ選手が強くなればいいのではない。面白い試合であればいいのではない。贔屓チームの勝利が至上なのではない。「NO SIDE 良き敗者」こそが本質的な価値なのだ。
「楽しむ」ことに向けて、様々な営為が積み重なっていく。
それは地域社会が総出となって取り組む、とても高度な集団のマネージメントであるのだ。
そうしたスポーツの楽しさを「祭り」という視点から考えてみよう。
応援の楽しみはさらに広がるだろう。それが誰であれ、そのとき共に応援する人に寛容になるだろう。
一人でもいいではないか。
68歳独身の私はラグビーワールドカップを人生一度の「私の祭り」として堪能した。
オリンピック・パラリンピックも祭りである。世界最大の祭りである。
2020年には、大会会場ばかりでなく、日本全国で、さらには広く世界で、無数の多彩な祭りが生まれることを私は期待する。
私自身もどのような「私の祭り」とするか、そろそろプランを立てなくてはならないのだ。

私は2020東京オリンピック・パラリンピックは、人類にとって大きな価値を持つものになると考えている。
話が大きすぎるだろうか。委細の説明は別の機会とするが、私は真面目にそう考えている。
この時代に、この世界の状況で、世界で最も精緻な都市東京で、誰もがスマートフォンを持って自動通訳と地図案内と観戦案内・観光案内を使いこなし、SNSでつながり、AI技術開花の入り口という時に開かれる、世界が集うオリンピック・パラリンピックという「世界の祭り」。この意味するところを考えてみよう。
そして2023年にはヨーロッパ・揺れるECの中枢フランスでラグビーワールドカップが、2024年には近代都市の代表である華の都パリでオリンピック・パラリンピックが開催される。さすがにフランスもスポーツのもつ豊かな可能性に気づいていると考えたい。日本・東京からフランス・パリへ。この共同的チャレンジは「共に楽しむことを価値とする」寛容の時代への人類史的な転換となるだろう。
私はそのように考え、その現代史に参加できる幸運を喜び、「楽しみ」にしている。
最後に私の感想。
一番興奮した試合は、もちろん日本・スコットランド。説明不要。
ラグビーの魅力を堪能したのは3位決定戦ニュージーランド・ウエールズ。両チームに惚れ直した。
選手のプレーを楽しんだのはフィジー・ジョージア。フライングフィジアンの魔法に浸った。
ジャパンで最も印象に残った選手はなんてったって福岡。ナマ福岡のスピードは奇跡なのだ。
そしてラファエレティモシー。いくつもの起点になっていた。
立川に代わるセンターは誰なんだと思っていたが、中村とともに、見事にその任を果たした。
こう書いてみると、バックスの野生そのものの躍動が好きなんだなあ。

写真は決勝戦のパブリックビューイング観戦後に訪れた有楽町のファンゾーンでのスナップ。
今回の「私の祭り」はこれでお仕舞い。ありがとう。
次は2020年。もう来年だ!!

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