投稿者: iwasakihiroshi

  • 桜を眺めて「トライアスロンで自然と戯れる」楽しさを思う。

    桜を眺めて「トライアスロンで自然と戯れる」楽しさを思う。

     この週末、桜は満開だというのに、ひどく寒い。寒いなか、土曜のラントレでは30分のジョグ+180メートル坂道での「流し」を3本。久しぶりのランであったが、気持ちよく走れた

    何が気持ちよかったのかといえば、もちろん身体を動かす快感が基本なのだが、走った公園の緑が気持ちよかった。青葉茂れる5月はまだ先で、今日は曇り空であったが、目に映る緑が心地よかった。
    生まれ育ったのは横浜の下町で、働くようになってからはずっと東京。アウトドアのレジャーにも興味なく、自然との縁は遠いままに生きてきた。それがここにきて、しきりと自然の魅力を感じるようになっている。
    自然といってもいろいろあるが、まずは緑。木々、芝生の緑を見ると、ただただ「いいなあ」と感じる。その心持を言葉にすると、確かに「癒される」ということなのだが、見ているときはそんな言葉も思い浮かばず、緑の向こうに空を眺め、息を吸い込んで、心晴れやかとなる。自然と笑顔がこぼれるような感情となる。そして笑顔のままに走り出す。
    まあ、自然に目覚めたわけだ。あるいは自然を味わう快感に目覚めたわけだ。
    そこで、週末の土曜日はトライアスロンのトレーニングなので、日曜は緑を見に近くの公園にでかけてみたいと思っている。そんな衝動を心に温めていると、何らかのきっかけて、いつかは行動を起こすようになるものだ。多分今年の夏までには、電車に30分ほど乗って、緑豊かな公園に行くようになっていると予感している。
    自然の魅力とは目に映る色であったり、肌を差す光であったり、頬をなでる風であったり、私の生理に直接働きかける刺激であるのだが、そのうえに「常に移りゆく」ことをその魅力に加えておきたい。それはただベンチに座っているだけでも味わうことができるし、今日のようにこちらが動けば、また味わいは自在に変わっていく。
    「トライアスロンは自然を楽しむスポーツ」とはよく言われるところであるが、ただ泳ぎ、バイクに乗り、走ることで「自然を楽しむ」というのは、ちょっと言葉が足りないように思う。まず、3種目を通して「自然に挑戦していく」気分となる。積極的に自然とかかわることで、自然への意識や関心が自然と高まり、自然に自然を身近に感じるようになり、そして、このように、自然の魅力に目覚めるようになる。
    日々の暮らしというのは、不愉快なことも多い。仕事となればストレスは避けられない。私は仕事好きな人間と思うが、それでもそう思う。
    しかし、自然の魅力に包まれているときに「不愉快」はない。トライアスロンをしているときは、さらにその状態に一所懸命となり、「不愉快」など考えている暇もない。
    そこでいきなりだが、生きている実感、生きる楽しみというのは、そうした時を感じることなのだと思う。いまの世の中、何かを成し遂げたり、人のためになったりするための情報があふれているが、そんなことはどうなるのかもわからないことで、それよりも煩雑な日々のなかて「自然の移ろい」を感じる時をもつことが大切と思う。それは誰もができることであり、人間が人間であることをかみしめる、じつに豊かな時なのだと思う。
    トライアスロンは自然と戯れるものなのだろう。
    黄昏に うつりゆく空 桜道
    「トライアスロンで自然と戯れる」ことを大切にし、そうした時間を計画的に作り出すことによって、心の安寧を保っていきたい。
    今日は新年号「令和」の発表があった。報道がおおむね好意的に伝えているようで気持ちよい。。
    写真は昨日の夕方に歩いた深川の桜道。人も少なくいい黄昏の時を過ごした。

  • トライアスロンと共にある暮らしに、ちょっと飽きてきたのかもしれない。

    トライアスロンと共にある暮らしに、ちょっと飽きてきたのかもしれない。

     桜の開花となっているのに、今日は冬に逆戻りの寒空。

     昨夜、のどが痛み出した。
    今週は比較的よく寝ているのに、疲労感が抜けなかった。
    この冬は風邪をひかずにここまできたが、ついにひいたか!
    ともかく早く寝ようということで、シッカリと歯磨きにイソジンでうがいをして、11時前には就寝。今朝は6に目覚ましなしの起床。
    のどの痛みはなくなっている。よかったあ。でも体調は、疲労感とまではいかないが、スッキリでもない。
    さあ、トレーニングに出かけるかどうするか、大いに悩んだ。
    悩んだが、体調が悪化したら明日の日曜に休めばいいと思い切って出かけた。
    今日はスイムとインドアでのトレーニング(スピニングバイク、トレッドミル)。
    結果としては体調、気分とも、どこか吹っ切れた気分でいる。
    元気でこのように久々のブログに向かっている。

     体調が悪いときは無理せずに練習は休み、というのが正解なのだとは思うが、改めて考えてみると、本当に悪ければどうしようかとも思わないだろう。迷っているぐらいなら練習に出ればいいではないか。それが試合ならなおさらだ。
    行くと決めたら「大丈夫か」などとは思わず、戦闘精神いっぱいに気分を高めていく。そしてもし悪くなれば、そこでやめることになるのだろう。もし練習を続けられるのであれば、そんなに悪くはなかったということなのだ。
    果たして練習に行かずに休んだほうが回復が早いのか。
    それだってわからない。
    今日のように練習で吹っ切るなんてことだってあるんだ。
    ひょっとして「飽きてきた」のかもしれないとも思う。トライアスロンに飽きてきたというより、練習に飽きてきた。練習する日常に飽き、体を鍛えることに飽きる。飽きてくると緊張感を失い、面倒な気分が募っていく。「まあ、やめようか」のセリフが出てくる。
    さらに考えると「なかなか上達しない」ことに飽きてくる。それはあるなあ。トライアスロンを始めて10年となり、技術的には上達したとは思うのだが、速くはならない。タイムは落ちていく。なかなかモチベーションが持ちにくくなっている。
    寒空に 明日の花見は さてどこへ
    多分、体を動かすことそのものを楽しみとする感覚なのではないか。気持ちの良い体調で、神経にスイッチを入れ、汗をかくのはいい気分だ。水を切り、風を受け、地面をはねて全身で自然の刺激を感じるのは快感だ。この快感は能力にかかわらず、年に応じて、もつことはできるのだ。この感覚を求めることを自覚して「飽き」を吹っ切る。
    よし、いってみよう。
    写真は我が家のベランダから見る今日の寒空。
    話は変わるが昔ドイツのエッセンという町に展示会の視察にでかけ、ドイツの寒空と霙に出会った。石畳の広場と陰鬱な建物、店の明かりが暗い寒空によくマッチしていた。これがドイツなのかと思った。それと比べると、日本の寒空は明るいようである。暮らしも人もその地の気候から作られる。

  • 68歳の誕生日から1週間。「静かに丁寧に続けていく暮らし」がテーマ。

    68歳の誕生日から1週間。「静かに丁寧に続けていく暮らし」がテーマ。

     2月16日(土)

    68歳の誕生日。土曜日であったので、午前中はいつものようにトライアスロンのトレーニング。夕方の6時には堺屋太一先生のお通夜で青山斎場へ。堺屋先生は私が属するイベント学会の会長であり、一読者としても、学会会員としても大きな影響を受けてきた。お通夜のあとはイベント学会の仲間と赤坂で献杯。
    2月17日(日)
    今年初のレース参加。レースといっても10キロランの草レース。荒川沿いを走る。風が冷たく寒かったあ。特に後半の向かい風は厳しくて実につらかった。そんな天候のせいもあろうが「衰え」を強く実感。タイムは1時間15分程度ということは、キロ7分30秒程度のペース。まあ、はじめからノンビリいこうと思ってはいたが、それでも1時間10分以内にまとめたかった。身体は重く、足が伸びない。
    そこで思うのはやはり「身体づくり」なのだが、具体的にどうするか。
    8月の木更津大会で落車して右肩の骨にヒビが入ったが、そこがいまだ痛む。スイムはできるで放置してきたのだが、整形外科のリハビリテーションに行ってみようかと思っている。加えて、左の膝が痛んでいるので、そこも見てもらう。さらにリハビリテーションを通して、身体の管理ができないものかと思っている。
    2月18日(月)~2月22日(金)
    今週はベトナム関係、中国関係の仕事の整理がメインとなった。ベトナムも中国も陰暦の正月であり、この時期は「いよいよ新年」というモード。整理をすると、医療介護の大きな課題として「人材育成」が見えてくる。ベトナムも中国も日本の「人材育成」に大きな期待をかけているというと意外と思われるだろうか。でもそうなのだ。日本式の医療介護はベトナム、中国、そしてロシアでもブランドなのだ。
    ようやく「基本呑まない」生活が身についてきて、夜は家で食事後、テレビを見ながらストレッチと自重トレーニングを行うようになっている。いいぞ。
    22日(金)の夜にジムに行き、10分のスピニングバイク、10分のトレッドミル、10分のストレッチ、40分のスイム。スイムはまず500メートルから、25メートルのフォーミングを繰り返す。
    2月23日(土)
    誕生日から1週間後の土曜日。朝の9時半から「ヘルシィエイジング学会学術集会」に参加。夕方まで参加してから、恵比寿にフェルメール全作品の複製(リメイク)展に出かける。複製であるにしろ、その精度は高く、実寸大で一生の作品を時系列で通観できる。この魅力は大きい。いくつかの作品はまさに衝撃ともいえる光彩を放っていたが、それとは別に、フェルメールという人間(天才)の生涯に接して「静かに丁寧に続けていく暮らしの豊かさ」を感じた。
    2月24日(日)
    今日はバイクの100キロ自主練に誘われて、行ってみたいと思っていたが断念して、まず、こうしてブログに向かっている。3月の4日からベトナム出張の予定で、確定申告の準備もあり、考えてみるとこの休日にしておくべきことが多っかった。今日このあとはDROPBOXのアカウント確認、確定申告準備、シムでスイムから仕事に出かけ、帰宅後にこの1週間の準備となる。いろいろあるなあ。
    日一日と 日差し移ろい 空を見る
    68となると70歳が間近に感じる。これは発見であった。へえそうなんだ。いつまでトライアスロンができるだろうか。トライアスロンも含めて「静かに丁寧に続けていく暮らし」を作っていきたい。あくせくせず、遠くの空を眺め、ユックリと道の真ん中を歩いていきたいと自戒する。
    写真はフェルメールの代表作で、通観してもこれがハイライトであった。代表的な構図を離れ、このように個人を描いた作品はこれだけであり、それも驚きであった。他の作品には静逸な瞬間が切り取られていたが、この作品には永遠ともいえる祈りの愉悦があった。思わず手を合わせたくなった。いいものを見た。

  • 近事報告。ささやかながら私の「心身ケアプログラム」

    近事報告。ささやかながら私の「心身ケアプログラム」

    毎年年長引く風邪に悩まされているのだが、今年はこれまで風邪をひいていない。インフルエンザにもかかっていない。なお。インフルエンザの予防注射はすませている。
    今年は何が違うのか、つらつら考えてみるに「歯磨き」がその理由ではないのかと思っている。
    もともと歯磨きには時間をかけている。歯科衛生士に教えてもらった方法で磨くと約15分ほどかかる。外出時はそうはいかないが、家では食後に必ず15分かけて歯を磨いている。それなのに昨年暮れから歯茎の具合が悪い歯がでてきて、医者に行くと歯周病ということで、さらに丁寧に磨いている。家にいるときは朝昼晩の食後プラス寝る前の4回も磨く。
    ちょうどテレビの情報番組で、歯磨き・口腔ケアの重要性を紹介していた。高齢者の介護施設でも、感染症予防のために口腔ケアを励行しているという。インフルエンザを診る医師は感染リスクも高くなるが、歯磨き、手洗い、それにマメに水分をとって口の乾燥を防ぎ、予防しているという。
    「なるほど」ということで、口腔ケアを暮らしの「心身ケアプログラム」にインプットする。
    振り返ってみると、年をとるということは、いろいろと「心身ケアのプログラム」が増えていくということだという思いにいたる。
    家から駅まで歩くと15分から20分かかる。最近は時間に追われて自転車利用が当たり前になっていたのだが、「早歩き」にしている。はじめてみるとこんなことでも「上達」というものがあって、だんだんと速度が速まり、軽く汗ばむほとになり、気分としてはトレーニングとなる。
    これは積年の課題であったのだが「基本酒を呑む毎日」を約50年近くも続けてきたのだが、ようやく「基本酒を呑まない毎日」が身に付き始めている。酒を呑む代わりにストレッチと筋トレ、読書ににあてている。酒を呑まない暮らしの快適さを実感しはじめている。やってみればできるもんだ。

    「人間は習慣の奴隷である」という言葉があるが、年よりとして元気快適に生きていくにはそれなりの習慣をつくっていかなくてはならない。「心身のケアプログラム」を増やすということはそういうことなのだろう。
    私にとってトライアスロンは「生涯スポーツ」と公言しているのだが、「生涯スポーツ」というのも、言い換えれば、老化に応じた「心身ケアプログラム」に他ならない。「生涯スポーツ」とは老人のための生活習慣なのだ。
    寒風に 陽ざししうれしや ランニング
    スイム 100メートル2分30秒
    ラン  タイムトライアル1キロ5分45秒
    昨日の練習の記録だ。
    それが練習であれ、レースであれ、タイムをしっかりと記録保存する習慣がない。面倒なのもあるけど、目標管理というのが私にはなじまない。でも、この昨日のこのタイムを評価するには、やはり保存記録がいるんだなあ。さらに、これからはタイムを記録して目標にしてみようかという気分になっている。宗旨がえだな。
    スイムはまず100メートルで15秒削る。そのためには25メートルで約4秒かあ。でも25メートルだけなら33秒で泳ぐことはできる。そのスピードで100メートルかあ。などど考えてみる。
    要はそれが楽しいことなのかどうかということであり、奴隷となる習慣は楽しいものでなくてはならない。「習慣の奴隷」とは平凡な暮らしの中にささやかな「快適」をプログラムするということなのだよ。
    今回は写真はなし。

  • 今年はトライアスロンを始めて10年。生涯スポーツとしてのトライアスロン。

    今年はトライアスロンを始めて10年。生涯スポーツとしてのトライアスロン。

     皆様明けましておめでとうございます。

    いつも拙ブログご愛読ありがとうございます。
    今年もよろしくお願いいたします。

    昨年の暮れにウイルス性結膜炎を患い、年末はひたすら休息につとめたが、暮れの29日・30日とようやくジムに行って身体を動かし、31日には久々の5キロランを楽しんだ。
    以前は冬の時期にはマラソン大会にも出ていたが、今年は何もなし。
    トライアスロンについては、5月の横浜大会のスプリントに申し込んで抽選待ちだが、それ以外は決めていない。漠然と7月の昭和記念公園、9月の九十九里には行こうかと考えている程度。
    昨年は仕事の環境が劇的に変わり、それに追われるばかりで、トライアスロンまではなかなか気が回らなかったというのが正直なところだったと思う。
    そんな状態で8月の木更津大会でバイク落車。右肩の骨にヒビが入り、まだ痛い。改めてリハビリの治療に向かおうとも思うのだが、さて、どこかいいクリニックはないか。この際リハビリだけではなく、身体全体のリセットに取組みたいとも思っている。
    ではリセットをしてどこに向かおうというのだろう。

    このブログのタイトルは「58歳トライアスロン始める記」だが、今年は68歳となる。私のトライアスロン歴も10年を数えることになった。
    改めて確かめるのは、私にとってトライアスロンとは「生涯スポーツ」であり「ライフスタイル」ということだ。そして生涯スポーツとしてトライアスロンを選んだことは、とてもよかったと思っている。
    昨年「人生100歳時代」という言葉を覚えた。70歳までは何もしなくとも元気でいられるが、70歳以降はそうはいかない。100歳までの30年をどのようにして生きていくのか。何年寝たままで生きることになるのか。「人生100歳時代」とはそういうことだそうである。
    なるほど。トライアスロンをライススタイルとすることは、「人生100歳時代」に適っているといえるのだろう。
    何も100歳まで長生きしたいと思っているわけではない。むしろヤレヤレというのが正直なところで、いつお迎えがきてもタクシーに乗るようにアッサリと応じてやろうと思っている。
    ただ、生きているうちは心身とも元気で気持ちよくやっていきたい。元気でやっていくにはそれなりの暮らしの工夫が必要で、トライアスロンに向かうということが、そのまま元気で暮らすための工夫となっている。その工夫とは、心身の全体を総動員して取組む日々の挑戦であり、その挑戦をつづけていく緊張感が、私に生きていることの楽しみを与えてくれる。
    そう。向かう先は「生きていることの楽しみ」であるようだ。

    日本晴れ 走り初めして 初詣
    いつも正月には今年やるべきことを書き出して優先順位をつけている。
    以下、トライアスロンについて、今年やるべきこと。
    1 肩の痛みのリハビリテーション
    2 身体づくりの日々のプログラム開発と実践
    3 毎週土曜日のATAトレーニング参加
    4 朝ランの定着
    5 バイク練習時間の増加
    こんなところかな。
    写真は快晴のなか、遠くに見えるスカイツリー。
    まだ昇ったことがない。今年は昇ってみたい。

  • ウイルス性結膜炎にかかってしまって今年は終了。

    ウイルス性結膜炎にかかってしまって今年は終了。

     ウイルス性結膜炎にかかってしまった。ウイルス性なので、誰かからうつされるわけなのだが、親しい友人からアデノウイルス結膜炎になったのでうつす危険ありと知らされ、ネットで調べると潜伏期間は1週間ということで、1週間後にしっかりとかかってしまった。

    症状としては左目の炎症。痛みと涙と目ヤニ。目があかない。
    ネットによれば、ウイルスなので治療方法はなく、約2週間から3週間で自然治癒するとのこと。
    そんな状態で、12月8日の奄美大島サイクリング大会90キロに参加した。ウイルス性で感染力は高いという、それも考えると、よほどとりやめようかと思ったのだが、もう自転車は送ってあり、自転車を返す手続きはしなければならないよなあ、行ってみてきつければとりやめようと思いを定めてでかけてきた。

    まずはサイクリング大会の報告だが、コースはアップダウンが厳しい峠を4つ越えなくてはならない。天候が悪く弱い雨が降り続いた。そのために道路の状態が悪く距離は60キロショートカットになった。
    坂に自信がないので、足は普通のトレーニングシューズ。もうだめ、と思ったら安全に足をつくためだ。そんな心構えなので、坂がきつくなるとすぐに足をつき、自転車を押して歩くことになる。
    雨のなかでのくだりも厳しく、出だしのくだりで早くも後輪がスリップし、ともかく安全第一。怖くなれば立ち止まり、あるいは降りて自転車を押し、といった状態。海辺コースの景色はさすがに美しかったが、雨に打たれ続けて低体温の震えを覚え、散々な気分。それでも日のあるうちになんとかゴール。ホテルに戻りシャワーを浴びてようやく人ごこち、打ち上げ会に遅れずに参加することができた。
    結膜炎の体調、降りやまない雨のハンディもあり、私にとってはキツイ大会で楽しみはなかった。この大会を体験したのはよかったが、来年はリベンジなんて気分にはならないなあ。
    やはり自転車は苦手、というのが今回の感想。今年は落車で肩の骨にヒビという事故もあり、自転車との距離は広がった。来年は新車を購入と考えていたが、その気分もなえ、いまの状態で最低限のつきあいを、という気分となっている。さて、どうするか。
    奄美大島から帰ってようやく眼医者に行くことだできた。かなり重症、ともかく安静にして、しっかりと目薬を使ってくださいという診断。
    あきらめて練習は全休し、仕事は仕方ないが、できるだけ睡眠をとることに専念。そうなると、この1年の疲れがドッと出てきたようで、日々眠りにつく状態が心地よく、ひたすらに体調の回復を待つ状態となった。それでも日々回復を実感し、どうやらこのまま年末年始に突入となるようだ。

    年の瀬に 振り返るのは この10年

    この休養モードのなかで、まあ小休止の心境となっている。小休止といっても気分としては10年スパンでの休止で、この1年に限らない。休んで体調を回復したところで、改めて気持ちと心を整理したいと思っている。疲れ衰えているときにあれこれを考えるのはよくない。考えるには元気でないといけない。
    まずは1時間ウォークからなのだが、まだその気分にいたっていない。この3日間の連休でその気分になることを待っている。
    写真は奄美大島の打ち上げの様子。打ち上げは大いに楽しみました。

  • 近事断片。こんなことをしたり、考えたり。

    近事断片。こんなことをしたり、考えたり。

      先日、ほぼ同年代の仕事仲間4日人と飲む機会をもった。うち一人は食道がんの治療中で、だいぶ回復はしてきたが、まだ声がよく出ない。つい先日にボヘミアンラプソディーを見て大いに感動したとのことで、不自由とはいえ、熱を帯びた語りで、その元気な姿に安堵した。

    もう一人は今年の1月にすい臓がんを発症して治療中。自から「すい臓がんは5年生存率が7%」と解説し「グループ生前葬」をやりたいそうだ。「グループ生前葬」というのは、まあ、仲間と一緒に集まっての生前葬で、にぎやかでいいではないか、という趣旨だろう。私も今年春の「初期大腸がん手術」の体験を披歴して、話題に加わった。
    この年齢になると、「がん」が飲み屋での共通話題となる。
    けがの回復が思わしくない。木更津トライアスロンで落車して痛めた肩と肘だ。肩は動かす拍子に痛む。どのように動かせばどのように痛いのかがよくわからないのだが、痛む。いろいろと動かしながら痛む部分を探していくと、ヒビとは違う部分であったりする。なんとも難しい。肘は肩よりは簡単で、肘をつくと痛む。ともにいまだに傷あとが大きく赤く残っている。この傷あとがなくなったときに、痛みも消えてくれるのか。さて、どうだろう。
    その時はその時として、この痛みとどのように付き合っていくのか。
    この年齢になると、身体に何らかの痛みを抱えている人は少なくないだろう。肩、腰、膝など、多くの広告が出ている。しかし、この痛みは老化によるものではなく、けがによるものだ。それがためか、比較的明るい気分でけがを見つめている。明るいというのは、基本的には回復基調であり、いずれは完治すると思って疑わないからだ。回復の軌跡を楽しく見つめていくような気分さえある。

    このところ天気がよい。秋晴れが気持ちよい。そんな天気にも誘われて、朝ランを続けている。毎日というわけにはいかないが、なんとか週に2回ぐらいは確保している。
    そこで少しずつわかってきたのは「朝ランを日常とする生活の心地よさ」。走ることで両足と身体に刺激を与え、毛穴を開き、シャワーで汗を流して一日を始めるのは気持ちいい。走るために毎日のスケジュールや暮らしの管理も厳格になって気分もしゃっきりする。「明日の朝には気持ちよく走りたいので酒は抑える」のだ。
    秋の空 なにはなくとも 走り出し
    歳をとると心身とともに周囲の環境も変化していく。何を楽しみにして、毎日をどのように過ごすか。誰と会って何の話をするのか。意識して取り組むようになる。
    若いうちは「今日は何をしようか」という自問はあっても「毎日をどのように過ごしていこうか」などとは考えなかった。しかし、いま「毎日の過ごし方」こそが大きなテーマになっている。
    そこでいきなりであるが、トライアスロンを続けていきたいと思う。
    トライアスロンは「毎日の過ごし方」の軸となっている。
    トライアストンが朝ランに向かわせ、朝ランが毎日の時間割をつくりだし、毎日の時間割を考えることが緊張を生み出し、その緊張こそが、例えば「今日読んでおきたい本」へと気持ちを向かわせることになる。ぽつぽつと読んでいるアンナカレーニナが面白くなってきた。その面白さについてはいずれまとめてみたい。
    写真は快晴をバックにした東京タワー。気持ちのよい写真が撮れた。

  • ランもスイムも少しずつ回復しているようで。練習が楽しくなってきた。

    ランもスイムも少しずつ回復しているようで。練習が楽しくなってきた。

    前回のブログでランの衰えを書いた。感覚としてキロ1分の衰えで、以前のキロ7分の感覚で走ると、現実はキロ8分、キロ6分がキロ7分ということなのだ。果たしてこれは加齢によるものなのか、あるは練習不足なのか。何を言っているのか。両方じゃないか。と言ってしまうと話がそこで終わってしまうので、話を先に進める。
    そんな状態のなか、今日のランのトレーニングでは、3キロをキロ6分15秒のペースで。そのあとの1キロのタイムトライアルは5分37秒で走ることができた。キロ1分の衰えがだいぶ回復して、キロ30秒ほどの衰えになったかと思う。
    今日、よかったのは、安定したフォームで3キロを走れたこと。寄る年波から早いリズムのピッチ走法を心がけているのだが、2500あたりでもしっかりと走ることができて、「いけるぞ」の気分となった。走ったあとの余力もあった。
    この手ごたえなら、練習を重ねればキロ15秒はあげられるだろう。タイムレースについてはどうかなあ。これは5分を目指したいのだが、そんな無謀な目標にも、今日は「やってみようか」の気分となった。

    ランに先立つスイムでは、100メートルを2分15秒程度でこなすことができた。こちらも「もう少しいけるよな」といった手応えを感じた。ポイントは体のポジション。前のめりに水にもぐっていく感覚を持続すること。25メートルまではついていける。でも25でターンをすると、どんどんと引き離されていく。一つには手を回すスピードが遅くなる。そこで頑張って回すと力が入って腰が沈んていく。そういうことなんだよな。わかっているのになかなかできない。
    しかし、スイムも「やってみよう」の気分である。
    ということで、ランもスイムも手応えを感じた今日の練習であった。
    そこで思うことは、日々続けてトレーニングをする大切さ。
    毎日「動いている」という感覚を身体に刻むこと。

    仕事が忙しいとなかなか練習の時間がとれない。でも、仕事があまりに忙しいので練習をするということがある。練習は仕事の疲れやストレスを癒してくれる。よってあまりに忙しくなると、練習で癒さないとやっていけなくなる。その感覚がわかってきた。
    これまでであれば、仕事の癒し、気分転換は酒であった。それが練習になってきているということなのだ。練習をしている日々を、その時間を、その肉体の反応を楽しむ。そんな気分となっている。
    前回は衰えの原因は加齢と書いた。それは間違えないのだが、加齢の衰えも、練習によってカバーできることがあるのだ。それを実感している。
    天高く その空に向かい 走り出す
    肩のヒビ、肘の打撲がまだ治らない。長くかかるものだ。
    こうして全身の細部を意識する。
    今日練習後の体重が69.5キロであった。70キロを割っている。いいぞ。
    今日は写真はなし。

  • ランの衰えを実感。衰えはキロ1分。回復できるかなあ。

    ランの衰えを実感。衰えはキロ1分。回復できるかなあ。

     トライアスロンのトレーニングを始めたころ。大井町に住んでいた。大井海浜公園に1周1キロのコースがあって、初めて10周10キロを走った。トライアスロンをやるからには10キロは走れないといけないが、10キロなんて走ったこともない。「まあ、いけるまでいってみよう」と走り出した。「ユックリ、ユックリ」と言いきかせ、10キロを気持ちよく走り、時計を見るとちょうど1時間20分であった。「ユックリ、ユックリ」がキロ8分のペースであったわけだ。大いに満足した。

    ATAでのランでのトレーニングで、キロ7分のペースについていなかったことを覚えている。
    これまで、マラソンの自己ベストは4時間48分であった。換算するとキロ6分50秒を切るぐらいだ。随分と上達したわけだ。
    1年前は、何も考えずに普通に走るとキロ7分。身体が温まって調子が出て、ちょっと意識をあげるとキロ6分。頑張るとキロ5分に迫るところまできて、なんとかキロ5分を切れないか、などど考えていた。
    それがいまはどうなっているか。
    何も考えず普通に走るとキロ8分に落ちてしまった。キロ7分で走るには以前のキロ6分の意識が必要になる。
    そして今日、1キロのインターバルトレーニングがあった。
    1本目は5分50秒。500メートルで息がきれて後半はどんどんペースが落ちていった。2本目は6分、3本目は6分10秒となった。
    走る力が衰えている。
    身体の実感としては、キロ7分が8分に、6分が7分に、5分が6分に、1分ほどの衰えである。
    つい先日の5キロの自主練はキロ7分34秒であった。実はちょっと頑張ってこの時間である。

    さて、ここで思う。
    この1分の衰えは回復できるのか。あるいは1分をこえてさらにアップすることは可能なのか。
    1年前は走りのペースを自分でコントロールできていた。キロ7分と思えば7分、6分と思えば6分で、ほぼ正確に走ることができた。いまはその体内時計が狂っているようだ。

    秋晴れだ 青空みつめ 走りだせ
    レースで時間を目標にすることはない。意識するのは呼吸であり、いつも安定した体調で走る続けることだけを考えている。
    しかし、それだけではどんどんとタイムが落ちてく事態になった。恥ずかしながら、この年齢になっても「まだ伸びしろがある」と思いながらやってきた。それはトレーニングに向かう意欲の原泉であった。
    でも、ちょっと考えを変えなくてはいかないかなあ。
    そうは思うものの、正直、どのように変えていくかがわからない。
    例えば、加齢で一段階段を落ちた感覚があるが、トレーニングは一段ギアをあげてみる。
    できるかな。できないかな。
    それはやってみないとわからない。
    いずれにしろ楽しくないことはしない。
    それが基本。
    写真は我が家のドアを開けて見る今日の青空。
    今日は長袖のウエアで走った。
    秋到来。また楽しからずや。

  • 怪我の回復は3か月。それは新陳代謝の期間。

    怪我の回復は3か月。それは新陳代謝の期間。

    今日は木更津トライアスロンで負った怪我について。
    負ったのは8月26日。右肩のヒビ、肩・肘・膝の擦過傷。
    それから約2か月半が経過。
    擦過傷については、ようやく絆創膏が取れたが、ちょっとした痛みが残っている。
    かさぶたが残り、傷跡も目立つ。
    肩のヒビについては、全治1か月とのことであったが、いまだ痛みが残る。
    スイムができるまで回復したものの、ひょっとした拍子に痛みが走る。
    怪我の当初は、ヒビのほうがはるかに重症であり、擦過傷は早々に治っていくものと思っていたのだが、ここまできて感じるのは「骨のヒビも擦過傷も回復は同じペース」ということ。医学的にはどうなのかは分からないが、「人の身体というものはこのようにしてできているのだ」という実感を得ている。
    その実感からすると、あと2週間、怪我後2カ月で基本的に回復するものの、まだ痛みの感覚は残り、3か月で完治となるのではないかと思っている。
    人の細胞は、骨も含めて、3か月で入れ替わるという。
    これを新陳代謝というのだそうだ。
    なるほどなあ。

    思い出すと、右足の肉離れも、まあ3か月というのは回復の目安であった。ただし、痛みは残り、完治を実感するには6カ月の月日がかかった。3か月の2クールだ。
    トライアスロンには、怪我や痛みはつきものというが「怪我の回復相場は3か月」とうのは、私の経験知識。覚えておこう。
    となると、今回の怪我の私の回復は11月の末とななるようだ。
    いま、回復基調にあるなか、ちょっとしたリハビリ気分で、朝ラン、マシーン、スイム、ストレッチに向かっている。回復を目標にした緊張感を楽しんでいる。
    さて、11月の末にはどんな心身の状態になっているのだろう。
    冷え込んで 肌をさすって 走り出す
    肉離れから骨折(ヒビ)までのこの1年。肉体的には老化を実感した1年であった。その1年の間に10回近くもベトナムに行くことになるとは思ってもいなかったなあ。身体も仕事も転機であったということなのだろう。
    では心のほうはどうだろう。
    唐突だが、いま、トルストイのアンナカレーニナを読みだしている。以前から、読み逃していた古典とされる長編小説を読みたくなっていた。トーマス・マン、フォークナー、ディケンズなど。これらの人々はいったいどんなことを考えていたのか、そこに関心がある。
    トルストイの関心は何だったのか。なぜこれを書きたかったのか。そんな気持ちでアンナカレーニナを読んでいる。描かれているのは恋愛の感情、あるいは恋愛をめぐる人々の思いである。小林秀雄は「トルストイだけを読み給え」と言っていたなあ、ボバリー夫人も命をかけた迫真の恋愛小説であったなあ、などと思い出しながら、ポツポツとページをめくっている。
    恋愛に限らず、図らずも何かに心奪われて生きることなどを、とりとめもなく思いめぐらせている。
    今回は写真はなし。