カテゴリー: ライフスタイル

  • 私の老年学の第3回。心の収縮と自己鍛錬について考えてみました。

    私の老年学の第3回。心の収縮と自己鍛錬について考えてみました。

    前回から、だいぶ時間が経ってしまった。

    8月5日から9日までハノイ、8月19日20日が北京。海外出張は体にこたえる。時差はハノイが2時間、北京が1時間と大きな差ではなのだが、それでも身体のリズムがおかしくなり、疲れやすく集中力が衰える。ブログとも遠ざかる。
    ようやく回復し、改めてこれまでを振り返りつつ、考えを進めてみる。
    老化とは「収縮」である。
    まずこれがスタート。これは実感である。
    よって「収縮」を感じつつ、その状態をできるだけ居心地よく暮らしていく「工夫」が必要になる。若いうちは何も考えずに生きていくのだが、歳をとると漫然と日々を過ごしていくことができなくなる。何らかの「工夫」を自覚することが必要なのだ。
    そしてヴァレリーに触発されて「自己鍛錬」こそが「工夫」の要点ではないかと考えた。また、この「自己鍛錬」は何らかの「目標」を含むことにより「緊張という快楽」をもたらしてくれる。
    私の場合は、「身体の自己鍛錬」はトライアスロンだ。
    高齢者のスポーツというと、もっぱら「健康管理」の側面から語られている。
    しかしスポーツとは高度な精神活動であり、特に高齢者にとってのスポーツの楽しみとは、その精神活動の魅力にある。
    トライアスロンの大会を目標にして、仕事との調整、トレーニング、体調管理、食事、バイクのメンテナンス、大会の申込、前日の準備など、自らのあらゆる活動を総動員する。「収縮」していく運動機能を把握しながら「自己鍛錬」に励む。そんな「老人のスポーツライフ」もあると思う。
    では「心の収縮」に応じた「自己鍛錬の楽しみ」は何か。
    前回のブログ以降、そのことを自問自答してきたが、なかなか簡単には答えがでない。
    まず「読書」が頭に浮かんだが、それだけではどうもスッキリと納得ができない。そもそもなかなか読書ができなくなっていることが「収縮」の自覚症状なのだ。でも、やはり「読書」による「心の自己鍛錬」を考えてみたい。
    だだ漫然と読書をするのではなく、何らかの意図と目標をもって読書する。溌剌とした気分で読書をする。
    高齢者にとってのそんな読書の楽しみを考えてみたい。
    数年前から、生きているうちに「古典の名作」を読んでおきたいと思うようになった。
    そこで「赤と黒」「ボバリー婦人」「ゴリオ爺さん」「アンナカレーニナ」と読んできたのだが、いずれも途中まで読んでは止まってしまう。これが「収縮」の症状である。
    「途中まで読んで止まってしまう」のは「つまらない」からではない。むしろ作品に漲る緊張感に息がつまり、ちょっと距離を置いて一息つく気分で本を閉じてそのまま放棄という結果となった。本に没入していく心の力の衰え、収縮である。
    こんなことを調べてみた。
    「戦争と平和」はトルストイが34歳の時に執筆を始めたという。
    「魔の山」が出版されたとき、トーマス・マンは49歳であった。
    「八月の光」が出版されたとき、フォークナーはは35歳であった。
    「人間喜劇」を書いたのはバルザックが36歳のとき。
    なんだ、みんな若造ではないか。この若さで歴史に残る作品を書いたのか、あるいは若かったから書けたのか。我が身を顧みれば「馬齢を重ねる」という言葉が身に染みる。しかし、馬齢とはいえ、様々な経験も重ねている。そこで、年寄りが若き小説家と語るように読んでいくのはどうだろう。「ほう、そんなことを考えているのか、きみもまだ若いなあ」なんて気分で作者と語り合う。
    まずは、ただいま読みかけのトルストイと語り合ってみようか。
    「よう、ご無沙汰」の気分だな。
    あけ放ち 夜風よびこみ ストレッチ

    命あるうちに、歴史に名を刻む偉大な精神と先輩気分で語り合う。これも高齢者ならではの楽しみであろう。死んだ人を新たな友として語り合う。これを快楽としたい。
    9月22日の九十九里トライアスロンまで1か月を切った。夏になってだいぶサボったので、気合を入れないといけない。暑さのため敬遠してきたランとバイクが不安だ。手帳を見ながら、「この日はラン、この日はバイク」と書き入れてみる。収縮する日常生活に「スケジュール管理」という自己鍛錬に向かうのだ。
    写真は北京空港。今回は一人旅でちょっと緊張。

  • 私の老年学2はやや高踏的に「ポール・ヴァレリー」の講演から。キーワードは「自己鍛錬」。年寄りの自己鍛錬です。

    私の老年学2はやや高踏的に「ポール・ヴァレリー」の講演から。キーワードは「自己鍛錬」。年寄りの自己鍛錬です。

    心を溌剌とさせる「心のリズムトレーニング」とは何か。
    こんなことを書くと、心理学や認知症、高齢者介護などからの援用をしたくもなるのだが、あるいは書店では著名作家の「高齢者のための心構えガイドブック」がたくさん出てもいるのだが、ここではまったく違う方向からこの思考のきっかけを得ることにする。

    以下はポール・ヴァレリーの「知性に就いて」という講演内容の引用である。
    当ブログでは珍しく面倒な話になるのだが、私としてはここからスタートしたいので、ご容赦願いたい。お付き合いいただければ幸いだ。
    『現代を特徴づけていることの凡ての中で、一つ私が好感を持っていることがある。それはスポーツである。・・・私の言うのは、流行や模倣の結果としてのスポーツではなく、又、新聞で余りにも持噺されている種類のものでもない。私が愛するものはスポーツの観念であって、それを私は精神の領域に移して見るのである。この観念は、我々がもって生まれた性能のいずれかを、最大限度に発達せしめることをその目的としていて、しかも我々に備わっている凡ての性能の間に、ある平衡が保たれていることをも要求するものなのである。何故なら、人間を不具にするスポーツは悪いスポーツがからなのだ。又、スポーツの練習が真剣に行われている場合、それは必ず幾多の試練と、時には堪え難い欠乏と、一定の衛生と、結果に正確に現れる緊張と忍耐とを、要するものなのである。--一言にして言えば、人間の諸性能の分析と、その組織的な刺激とを基礎として、人間をある典型に向かって発達せしめて行く、正真正銘の行為の倫理学なのである。よって我々は一見逆説的に、スポーツとは反射作用の組織的な教育であると定義することが出来る。
    併し精神も、精神ではありながら、同じような方法によって処理することができる。』
    (中公文庫 精神の政治学 ポール・ヴァレリー 吉田健一 訳)
    この文を読んだのは昨年のことだが、私がトライアスロンに励み、同時にこのブログを書いていることの動機や思いに、ストンとはまってしまった。。
    『人間をある典型に向かって発達せしめて行く、正真正銘の行為の倫理学』
    『スポーツとは反射作用の組織的な教育であると定義する』
    これを私なりに「自己鍛錬の楽しみ」と名付けてみる。
    この楽しみは、誰も知っているように、一流アスリートのみの特権ではない。
    年寄りには自己鍛錬の楽しみがある。
    年寄りの自己鍛錬は、若者の自己鍛錬とは異なる。
    若者は自己鍛錬の末に「何者か」となる。
    あるいは「何者か」を求めて苦しい自己鍛錬に耐える。
    しかし年寄りはもう「何者か」となることはない。
    「いやいや幾つになっても」という声もあるのは知っているが、私からすれば「バカ言うな」の一言である。
    「何者か」になることを求めずして「自己鍛錬に励む」。それは自己鍛錬そのものが、生きていく快楽であるのだろうと思う。

    ヴァレリーがこの講演を行ったのは1935年1月16日。ヴァレリーは1871年生まれなので、その計算からすると64歳。この時代では立派な高齢者である。ヴァレリーというと「地中海」となり、また水泳を愛したことで知られる。であれば、この講演をした64歳のヴァレリーは果たして泳いでいたのか。そう考えるのは楽しい妄想であるが、わからない。ただし、64歳でこの講演を行ったというのは、高齢者の私としては、こうした考えを自らに撞着させる大きな理由となる。
    もう一つ。こんなことを考える。
    自己鍛錬を成立させるには「目標」が不可欠である。目標の達成は「鍛錬」の成果であり、目標がなくなれば「鍛錬」の意味もなくなってしまう。
    体を鍛錬するその行為のなかに「目標」を内在させる。年寄りの「目標」はまさに自分自身の道しるべ以外のものではない。
    夏が来た 命華やぐ 正気かな
    ここでようやく「心の自己鍛錬」の話にたどり着く。
    回りくどい話となっているが、そうでなくては語ることのできない思いというのはあるのだ。付き合ってほしい。
    そこには「目標」があり、日々の積み重ねが必要と考えてみる。。
    しかし、そのような精神活動というものが実際にあるのだろうか。
    自らあやつることのできる「心のリズムトレーニング」なるものは存在するのだろうか。
    はい、この先は次回。
    ちょっと一泊置いて考えます。
    梅雨も明けて、夏が来たぞう。
    体も心暮らしも「自己鍛錬」だあああああ。
    写真はヴァレリー。けっこうカッコつけている。

  • 桜を眺めて「トライアスロンで自然と戯れる」楽しさを思う。

    桜を眺めて「トライアスロンで自然と戯れる」楽しさを思う。

     この週末、桜は満開だというのに、ひどく寒い。寒いなか、土曜のラントレでは30分のジョグ+180メートル坂道での「流し」を3本。久しぶりのランであったが、気持ちよく走れた

    何が気持ちよかったのかといえば、もちろん身体を動かす快感が基本なのだが、走った公園の緑が気持ちよかった。青葉茂れる5月はまだ先で、今日は曇り空であったが、目に映る緑が心地よかった。
    生まれ育ったのは横浜の下町で、働くようになってからはずっと東京。アウトドアのレジャーにも興味なく、自然との縁は遠いままに生きてきた。それがここにきて、しきりと自然の魅力を感じるようになっている。
    自然といってもいろいろあるが、まずは緑。木々、芝生の緑を見ると、ただただ「いいなあ」と感じる。その心持を言葉にすると、確かに「癒される」ということなのだが、見ているときはそんな言葉も思い浮かばず、緑の向こうに空を眺め、息を吸い込んで、心晴れやかとなる。自然と笑顔がこぼれるような感情となる。そして笑顔のままに走り出す。
    まあ、自然に目覚めたわけだ。あるいは自然を味わう快感に目覚めたわけだ。
    そこで、週末の土曜日はトライアスロンのトレーニングなので、日曜は緑を見に近くの公園にでかけてみたいと思っている。そんな衝動を心に温めていると、何らかのきっかけて、いつかは行動を起こすようになるものだ。多分今年の夏までには、電車に30分ほど乗って、緑豊かな公園に行くようになっていると予感している。
    自然の魅力とは目に映る色であったり、肌を差す光であったり、頬をなでる風であったり、私の生理に直接働きかける刺激であるのだが、そのうえに「常に移りゆく」ことをその魅力に加えておきたい。それはただベンチに座っているだけでも味わうことができるし、今日のようにこちらが動けば、また味わいは自在に変わっていく。
    「トライアスロンは自然を楽しむスポーツ」とはよく言われるところであるが、ただ泳ぎ、バイクに乗り、走ることで「自然を楽しむ」というのは、ちょっと言葉が足りないように思う。まず、3種目を通して「自然に挑戦していく」気分となる。積極的に自然とかかわることで、自然への意識や関心が自然と高まり、自然に自然を身近に感じるようになり、そして、このように、自然の魅力に目覚めるようになる。
    日々の暮らしというのは、不愉快なことも多い。仕事となればストレスは避けられない。私は仕事好きな人間と思うが、それでもそう思う。
    しかし、自然の魅力に包まれているときに「不愉快」はない。トライアスロンをしているときは、さらにその状態に一所懸命となり、「不愉快」など考えている暇もない。
    そこでいきなりだが、生きている実感、生きる楽しみというのは、そうした時を感じることなのだと思う。いまの世の中、何かを成し遂げたり、人のためになったりするための情報があふれているが、そんなことはどうなるのかもわからないことで、それよりも煩雑な日々のなかて「自然の移ろい」を感じる時をもつことが大切と思う。それは誰もができることであり、人間が人間であることをかみしめる、じつに豊かな時なのだと思う。
    トライアスロンは自然と戯れるものなのだろう。
    黄昏に うつりゆく空 桜道
    「トライアスロンで自然と戯れる」ことを大切にし、そうした時間を計画的に作り出すことによって、心の安寧を保っていきたい。
    今日は新年号「令和」の発表があった。報道がおおむね好意的に伝えているようで気持ちよい。。
    写真は昨日の夕方に歩いた深川の桜道。人も少なくいい黄昏の時を過ごした。

  • トライアスロンと共にある暮らしに、ちょっと飽きてきたのかもしれない。

    トライアスロンと共にある暮らしに、ちょっと飽きてきたのかもしれない。

     桜の開花となっているのに、今日は冬に逆戻りの寒空。

     昨夜、のどが痛み出した。
    今週は比較的よく寝ているのに、疲労感が抜けなかった。
    この冬は風邪をひかずにここまできたが、ついにひいたか!
    ともかく早く寝ようということで、シッカリと歯磨きにイソジンでうがいをして、11時前には就寝。今朝は6に目覚ましなしの起床。
    のどの痛みはなくなっている。よかったあ。でも体調は、疲労感とまではいかないが、スッキリでもない。
    さあ、トレーニングに出かけるかどうするか、大いに悩んだ。
    悩んだが、体調が悪化したら明日の日曜に休めばいいと思い切って出かけた。
    今日はスイムとインドアでのトレーニング(スピニングバイク、トレッドミル)。
    結果としては体調、気分とも、どこか吹っ切れた気分でいる。
    元気でこのように久々のブログに向かっている。

     体調が悪いときは無理せずに練習は休み、というのが正解なのだとは思うが、改めて考えてみると、本当に悪ければどうしようかとも思わないだろう。迷っているぐらいなら練習に出ればいいではないか。それが試合ならなおさらだ。
    行くと決めたら「大丈夫か」などとは思わず、戦闘精神いっぱいに気分を高めていく。そしてもし悪くなれば、そこでやめることになるのだろう。もし練習を続けられるのであれば、そんなに悪くはなかったということなのだ。
    果たして練習に行かずに休んだほうが回復が早いのか。
    それだってわからない。
    今日のように練習で吹っ切るなんてことだってあるんだ。
    ひょっとして「飽きてきた」のかもしれないとも思う。トライアスロンに飽きてきたというより、練習に飽きてきた。練習する日常に飽き、体を鍛えることに飽きる。飽きてくると緊張感を失い、面倒な気分が募っていく。「まあ、やめようか」のセリフが出てくる。
    さらに考えると「なかなか上達しない」ことに飽きてくる。それはあるなあ。トライアスロンを始めて10年となり、技術的には上達したとは思うのだが、速くはならない。タイムは落ちていく。なかなかモチベーションが持ちにくくなっている。
    寒空に 明日の花見は さてどこへ
    多分、体を動かすことそのものを楽しみとする感覚なのではないか。気持ちの良い体調で、神経にスイッチを入れ、汗をかくのはいい気分だ。水を切り、風を受け、地面をはねて全身で自然の刺激を感じるのは快感だ。この快感は能力にかかわらず、年に応じて、もつことはできるのだ。この感覚を求めることを自覚して「飽き」を吹っ切る。
    よし、いってみよう。
    写真は我が家のベランダから見る今日の寒空。
    話は変わるが昔ドイツのエッセンという町に展示会の視察にでかけ、ドイツの寒空と霙に出会った。石畳の広場と陰鬱な建物、店の明かりが暗い寒空によくマッチしていた。これがドイツなのかと思った。それと比べると、日本の寒空は明るいようである。暮らしも人もその地の気候から作られる。

  • 68歳の誕生日から1週間。「静かに丁寧に続けていく暮らし」がテーマ。

    68歳の誕生日から1週間。「静かに丁寧に続けていく暮らし」がテーマ。

     2月16日(土)

    68歳の誕生日。土曜日であったので、午前中はいつものようにトライアスロンのトレーニング。夕方の6時には堺屋太一先生のお通夜で青山斎場へ。堺屋先生は私が属するイベント学会の会長であり、一読者としても、学会会員としても大きな影響を受けてきた。お通夜のあとはイベント学会の仲間と赤坂で献杯。
    2月17日(日)
    今年初のレース参加。レースといっても10キロランの草レース。荒川沿いを走る。風が冷たく寒かったあ。特に後半の向かい風は厳しくて実につらかった。そんな天候のせいもあろうが「衰え」を強く実感。タイムは1時間15分程度ということは、キロ7分30秒程度のペース。まあ、はじめからノンビリいこうと思ってはいたが、それでも1時間10分以内にまとめたかった。身体は重く、足が伸びない。
    そこで思うのはやはり「身体づくり」なのだが、具体的にどうするか。
    8月の木更津大会で落車して右肩の骨にヒビが入ったが、そこがいまだ痛む。スイムはできるで放置してきたのだが、整形外科のリハビリテーションに行ってみようかと思っている。加えて、左の膝が痛んでいるので、そこも見てもらう。さらにリハビリテーションを通して、身体の管理ができないものかと思っている。
    2月18日(月)~2月22日(金)
    今週はベトナム関係、中国関係の仕事の整理がメインとなった。ベトナムも中国も陰暦の正月であり、この時期は「いよいよ新年」というモード。整理をすると、医療介護の大きな課題として「人材育成」が見えてくる。ベトナムも中国も日本の「人材育成」に大きな期待をかけているというと意外と思われるだろうか。でもそうなのだ。日本式の医療介護はベトナム、中国、そしてロシアでもブランドなのだ。
    ようやく「基本呑まない」生活が身についてきて、夜は家で食事後、テレビを見ながらストレッチと自重トレーニングを行うようになっている。いいぞ。
    22日(金)の夜にジムに行き、10分のスピニングバイク、10分のトレッドミル、10分のストレッチ、40分のスイム。スイムはまず500メートルから、25メートルのフォーミングを繰り返す。
    2月23日(土)
    誕生日から1週間後の土曜日。朝の9時半から「ヘルシィエイジング学会学術集会」に参加。夕方まで参加してから、恵比寿にフェルメール全作品の複製(リメイク)展に出かける。複製であるにしろ、その精度は高く、実寸大で一生の作品を時系列で通観できる。この魅力は大きい。いくつかの作品はまさに衝撃ともいえる光彩を放っていたが、それとは別に、フェルメールという人間(天才)の生涯に接して「静かに丁寧に続けていく暮らしの豊かさ」を感じた。
    2月24日(日)
    今日はバイクの100キロ自主練に誘われて、行ってみたいと思っていたが断念して、まず、こうしてブログに向かっている。3月の4日からベトナム出張の予定で、確定申告の準備もあり、考えてみるとこの休日にしておくべきことが多っかった。今日このあとはDROPBOXのアカウント確認、確定申告準備、シムでスイムから仕事に出かけ、帰宅後にこの1週間の準備となる。いろいろあるなあ。
    日一日と 日差し移ろい 空を見る
    68となると70歳が間近に感じる。これは発見であった。へえそうなんだ。いつまでトライアスロンができるだろうか。トライアスロンも含めて「静かに丁寧に続けていく暮らし」を作っていきたい。あくせくせず、遠くの空を眺め、ユックリと道の真ん中を歩いていきたいと自戒する。
    写真はフェルメールの代表作で、通観してもこれがハイライトであった。代表的な構図を離れ、このように個人を描いた作品はこれだけであり、それも驚きであった。他の作品には静逸な瞬間が切り取られていたが、この作品には永遠ともいえる祈りの愉悦があった。思わず手を合わせたくなった。いいものを見た。

  • 近事報告。ささやかながら私の「心身ケアプログラム」

    近事報告。ささやかながら私の「心身ケアプログラム」

    毎年年長引く風邪に悩まされているのだが、今年はこれまで風邪をひいていない。インフルエンザにもかかっていない。なお。インフルエンザの予防注射はすませている。
    今年は何が違うのか、つらつら考えてみるに「歯磨き」がその理由ではないのかと思っている。
    もともと歯磨きには時間をかけている。歯科衛生士に教えてもらった方法で磨くと約15分ほどかかる。外出時はそうはいかないが、家では食後に必ず15分かけて歯を磨いている。それなのに昨年暮れから歯茎の具合が悪い歯がでてきて、医者に行くと歯周病ということで、さらに丁寧に磨いている。家にいるときは朝昼晩の食後プラス寝る前の4回も磨く。
    ちょうどテレビの情報番組で、歯磨き・口腔ケアの重要性を紹介していた。高齢者の介護施設でも、感染症予防のために口腔ケアを励行しているという。インフルエンザを診る医師は感染リスクも高くなるが、歯磨き、手洗い、それにマメに水分をとって口の乾燥を防ぎ、予防しているという。
    「なるほど」ということで、口腔ケアを暮らしの「心身ケアプログラム」にインプットする。
    振り返ってみると、年をとるということは、いろいろと「心身ケアのプログラム」が増えていくということだという思いにいたる。
    家から駅まで歩くと15分から20分かかる。最近は時間に追われて自転車利用が当たり前になっていたのだが、「早歩き」にしている。はじめてみるとこんなことでも「上達」というものがあって、だんだんと速度が速まり、軽く汗ばむほとになり、気分としてはトレーニングとなる。
    これは積年の課題であったのだが「基本酒を呑む毎日」を約50年近くも続けてきたのだが、ようやく「基本酒を呑まない毎日」が身に付き始めている。酒を呑む代わりにストレッチと筋トレ、読書ににあてている。酒を呑まない暮らしの快適さを実感しはじめている。やってみればできるもんだ。

    「人間は習慣の奴隷である」という言葉があるが、年よりとして元気快適に生きていくにはそれなりの習慣をつくっていかなくてはならない。「心身のケアプログラム」を増やすということはそういうことなのだろう。
    私にとってトライアスロンは「生涯スポーツ」と公言しているのだが、「生涯スポーツ」というのも、言い換えれば、老化に応じた「心身ケアプログラム」に他ならない。「生涯スポーツ」とは老人のための生活習慣なのだ。
    寒風に 陽ざししうれしや ランニング
    スイム 100メートル2分30秒
    ラン  タイムトライアル1キロ5分45秒
    昨日の練習の記録だ。
    それが練習であれ、レースであれ、タイムをしっかりと記録保存する習慣がない。面倒なのもあるけど、目標管理というのが私にはなじまない。でも、この昨日のこのタイムを評価するには、やはり保存記録がいるんだなあ。さらに、これからはタイムを記録して目標にしてみようかという気分になっている。宗旨がえだな。
    スイムはまず100メートルで15秒削る。そのためには25メートルで約4秒かあ。でも25メートルだけなら33秒で泳ぐことはできる。そのスピードで100メートルかあ。などど考えてみる。
    要はそれが楽しいことなのかどうかということであり、奴隷となる習慣は楽しいものでなくてはならない。「習慣の奴隷」とは平凡な暮らしの中にささやかな「快適」をプログラムするということなのだよ。
    今回は写真はなし。

  • 今年はトライアスロンを始めて10年。生涯スポーツとしてのトライアスロン。

    今年はトライアスロンを始めて10年。生涯スポーツとしてのトライアスロン。

     皆様明けましておめでとうございます。

    いつも拙ブログご愛読ありがとうございます。
    今年もよろしくお願いいたします。

    昨年の暮れにウイルス性結膜炎を患い、年末はひたすら休息につとめたが、暮れの29日・30日とようやくジムに行って身体を動かし、31日には久々の5キロランを楽しんだ。
    以前は冬の時期にはマラソン大会にも出ていたが、今年は何もなし。
    トライアスロンについては、5月の横浜大会のスプリントに申し込んで抽選待ちだが、それ以外は決めていない。漠然と7月の昭和記念公園、9月の九十九里には行こうかと考えている程度。
    昨年は仕事の環境が劇的に変わり、それに追われるばかりで、トライアスロンまではなかなか気が回らなかったというのが正直なところだったと思う。
    そんな状態で8月の木更津大会でバイク落車。右肩の骨にヒビが入り、まだ痛い。改めてリハビリの治療に向かおうとも思うのだが、さて、どこかいいクリニックはないか。この際リハビリだけではなく、身体全体のリセットに取組みたいとも思っている。
    ではリセットをしてどこに向かおうというのだろう。

    このブログのタイトルは「58歳トライアスロン始める記」だが、今年は68歳となる。私のトライアスロン歴も10年を数えることになった。
    改めて確かめるのは、私にとってトライアスロンとは「生涯スポーツ」であり「ライフスタイル」ということだ。そして生涯スポーツとしてトライアスロンを選んだことは、とてもよかったと思っている。
    昨年「人生100歳時代」という言葉を覚えた。70歳までは何もしなくとも元気でいられるが、70歳以降はそうはいかない。100歳までの30年をどのようにして生きていくのか。何年寝たままで生きることになるのか。「人生100歳時代」とはそういうことだそうである。
    なるほど。トライアスロンをライススタイルとすることは、「人生100歳時代」に適っているといえるのだろう。
    何も100歳まで長生きしたいと思っているわけではない。むしろヤレヤレというのが正直なところで、いつお迎えがきてもタクシーに乗るようにアッサリと応じてやろうと思っている。
    ただ、生きているうちは心身とも元気で気持ちよくやっていきたい。元気でやっていくにはそれなりの暮らしの工夫が必要で、トライアスロンに向かうということが、そのまま元気で暮らすための工夫となっている。その工夫とは、心身の全体を総動員して取組む日々の挑戦であり、その挑戦をつづけていく緊張感が、私に生きていることの楽しみを与えてくれる。
    そう。向かう先は「生きていることの楽しみ」であるようだ。

    日本晴れ 走り初めして 初詣
    いつも正月には今年やるべきことを書き出して優先順位をつけている。
    以下、トライアスロンについて、今年やるべきこと。
    1 肩の痛みのリハビリテーション
    2 身体づくりの日々のプログラム開発と実践
    3 毎週土曜日のATAトレーニング参加
    4 朝ランの定着
    5 バイク練習時間の増加
    こんなところかな。
    写真は快晴のなか、遠くに見えるスカイツリー。
    まだ昇ったことがない。今年は昇ってみたい。

  • 近事断片。こんなことをしたり、考えたり。

    近事断片。こんなことをしたり、考えたり。

      先日、ほぼ同年代の仕事仲間4日人と飲む機会をもった。うち一人は食道がんの治療中で、だいぶ回復はしてきたが、まだ声がよく出ない。つい先日にボヘミアンラプソディーを見て大いに感動したとのことで、不自由とはいえ、熱を帯びた語りで、その元気な姿に安堵した。

    もう一人は今年の1月にすい臓がんを発症して治療中。自から「すい臓がんは5年生存率が7%」と解説し「グループ生前葬」をやりたいそうだ。「グループ生前葬」というのは、まあ、仲間と一緒に集まっての生前葬で、にぎやかでいいではないか、という趣旨だろう。私も今年春の「初期大腸がん手術」の体験を披歴して、話題に加わった。
    この年齢になると、「がん」が飲み屋での共通話題となる。
    けがの回復が思わしくない。木更津トライアスロンで落車して痛めた肩と肘だ。肩は動かす拍子に痛む。どのように動かせばどのように痛いのかがよくわからないのだが、痛む。いろいろと動かしながら痛む部分を探していくと、ヒビとは違う部分であったりする。なんとも難しい。肘は肩よりは簡単で、肘をつくと痛む。ともにいまだに傷あとが大きく赤く残っている。この傷あとがなくなったときに、痛みも消えてくれるのか。さて、どうだろう。
    その時はその時として、この痛みとどのように付き合っていくのか。
    この年齢になると、身体に何らかの痛みを抱えている人は少なくないだろう。肩、腰、膝など、多くの広告が出ている。しかし、この痛みは老化によるものではなく、けがによるものだ。それがためか、比較的明るい気分でけがを見つめている。明るいというのは、基本的には回復基調であり、いずれは完治すると思って疑わないからだ。回復の軌跡を楽しく見つめていくような気分さえある。

    このところ天気がよい。秋晴れが気持ちよい。そんな天気にも誘われて、朝ランを続けている。毎日というわけにはいかないが、なんとか週に2回ぐらいは確保している。
    そこで少しずつわかってきたのは「朝ランを日常とする生活の心地よさ」。走ることで両足と身体に刺激を与え、毛穴を開き、シャワーで汗を流して一日を始めるのは気持ちいい。走るために毎日のスケジュールや暮らしの管理も厳格になって気分もしゃっきりする。「明日の朝には気持ちよく走りたいので酒は抑える」のだ。
    秋の空 なにはなくとも 走り出し
    歳をとると心身とともに周囲の環境も変化していく。何を楽しみにして、毎日をどのように過ごすか。誰と会って何の話をするのか。意識して取り組むようになる。
    若いうちは「今日は何をしようか」という自問はあっても「毎日をどのように過ごしていこうか」などとは考えなかった。しかし、いま「毎日の過ごし方」こそが大きなテーマになっている。
    そこでいきなりであるが、トライアスロンを続けていきたいと思う。
    トライアスロンは「毎日の過ごし方」の軸となっている。
    トライアストンが朝ランに向かわせ、朝ランが毎日の時間割をつくりだし、毎日の時間割を考えることが緊張を生み出し、その緊張こそが、例えば「今日読んでおきたい本」へと気持ちを向かわせることになる。ぽつぽつと読んでいるアンナカレーニナが面白くなってきた。その面白さについてはいずれまとめてみたい。
    写真は快晴をバックにした東京タワー。気持ちのよい写真が撮れた。

  • ランもスイムも少しずつ回復しているようで。練習が楽しくなってきた。

    ランもスイムも少しずつ回復しているようで。練習が楽しくなってきた。

    前回のブログでランの衰えを書いた。感覚としてキロ1分の衰えで、以前のキロ7分の感覚で走ると、現実はキロ8分、キロ6分がキロ7分ということなのだ。果たしてこれは加齢によるものなのか、あるは練習不足なのか。何を言っているのか。両方じゃないか。と言ってしまうと話がそこで終わってしまうので、話を先に進める。
    そんな状態のなか、今日のランのトレーニングでは、3キロをキロ6分15秒のペースで。そのあとの1キロのタイムトライアルは5分37秒で走ることができた。キロ1分の衰えがだいぶ回復して、キロ30秒ほどの衰えになったかと思う。
    今日、よかったのは、安定したフォームで3キロを走れたこと。寄る年波から早いリズムのピッチ走法を心がけているのだが、2500あたりでもしっかりと走ることができて、「いけるぞ」の気分となった。走ったあとの余力もあった。
    この手ごたえなら、練習を重ねればキロ15秒はあげられるだろう。タイムレースについてはどうかなあ。これは5分を目指したいのだが、そんな無謀な目標にも、今日は「やってみようか」の気分となった。

    ランに先立つスイムでは、100メートルを2分15秒程度でこなすことができた。こちらも「もう少しいけるよな」といった手応えを感じた。ポイントは体のポジション。前のめりに水にもぐっていく感覚を持続すること。25メートルまではついていける。でも25でターンをすると、どんどんと引き離されていく。一つには手を回すスピードが遅くなる。そこで頑張って回すと力が入って腰が沈んていく。そういうことなんだよな。わかっているのになかなかできない。
    しかし、スイムも「やってみよう」の気分である。
    ということで、ランもスイムも手応えを感じた今日の練習であった。
    そこで思うことは、日々続けてトレーニングをする大切さ。
    毎日「動いている」という感覚を身体に刻むこと。

    仕事が忙しいとなかなか練習の時間がとれない。でも、仕事があまりに忙しいので練習をするということがある。練習は仕事の疲れやストレスを癒してくれる。よってあまりに忙しくなると、練習で癒さないとやっていけなくなる。その感覚がわかってきた。
    これまでであれば、仕事の癒し、気分転換は酒であった。それが練習になってきているということなのだ。練習をしている日々を、その時間を、その肉体の反応を楽しむ。そんな気分となっている。
    前回は衰えの原因は加齢と書いた。それは間違えないのだが、加齢の衰えも、練習によってカバーできることがあるのだ。それを実感している。
    天高く その空に向かい 走り出す
    肩のヒビ、肘の打撲がまだ治らない。長くかかるものだ。
    こうして全身の細部を意識する。
    今日練習後の体重が69.5キロであった。70キロを割っている。いいぞ。
    今日は写真はなし。

  • バイク事故から1か月。だいぶ回復しました。

    バイク事故から1か月。だいぶ回復しました。

     肩のMRI診断では全治1か月とのことだった。確かに動かし方によって痛みはあるが、肩は回るようになった。そこで、今日は事故以来初めてプールにでかけた。

    果たして泳げるのか。腕を回せるのか。
    泳いでみると、ゴリゴリ感はあるものの、腕は回る。軽く8往復400メートルほど泳いでみた。久しぶりでとても新鮮な感覚があった。肩に負担をかけないように、力を抜いてピッチを上げて泳いでみると、これがいい感じだった。いままではフォームを大きく大きくと考えて、ややもするとピッチは後回しであったのだが、軽い感じでピッチを上げると、リズムが出てきて楽しんだ。
    昨日、一昨日と食事前の朝ランにでかけた。スロージョグで2キロ。出だしはキロ10分をこえるペースで、最後は8分ぐらいになる。そしてキロ5分程度の「流し」を加えて終わる。「流し」も含めて、意識しているのが楽にピッチをあげること。歩幅を考えずに、その場駆け足の感覚でピッチをあげる。つまり楽な感覚でスピードをあげる。
    楽にピッチをあげる。楽な感覚でスピードをあげる。加齢への対処としてはいいかもしれない。これでいってみるか。
    先週、今週と2周続けて土・日・月の3連休であった。ようやく夏休みをとった気分となり、落車でのショックもだいぶ癒された。
    先週の週末は16日(日)が九十九里トライアスロンで、今回は応援となった。トライアスロンをはじめて、まったくの応援となったのは、初の体験であったが、これはこれで得ることも少なくなかった。
    そこで思ったのは「なかなか大変なスポーツだなあ」ということ。私の同じ年の友人、佐藤さんはバイクで落車して、私とは反対の左側に倒れてDNFとなった。幸いに骨折はなかったようだが、擦過傷がひどい。やはり危険がつきまとう。
    最後のランは海岸沿いを走ってのFINISHとなるのだが、多くは見るからに疲労困憊。自分が走っているときは、周囲のことなど考えることもなかったが、今更ながらに「みんな大変なんだ」という至極当たり前の姿を目のあたりにして「俺もよくやっている」と自賛した。
    レースではいつも最後尾で、完走の達成感はあっても、ややコンプレックスを感じるところもあったのだが、「俺もよくやっている」と素朴に思えるようになった。
    軽いピッチで息長くやっていこう。

    日を終えて 心なだめて 月眺む
    この週末は3連休で、思い立って部屋の片づけをしたのだが、腰に痛みが出てしまった。こちらが治れば新たな課題。なんだかなあ。気が滅入るので、散髪に行って気分をスッキリさせた。
    今日は満月。写真は我が家のベランダからの眺め。FBとかぶりました。
    明日はペインクリニックに行って麻酔を打ってもらおう。