カテゴリー: オリンピック

  • オリンピック開催にあたりスポーツの裡にひそむ「官能的魅力」について。

    オリンピック開催にあたりスポーツの裡にひそむ「官能的魅力」について。

    『健康というものの不気味さ、たえず健康に留意することの病的な関心、各種の運動の裡にひそむ奇怪な官能的魅力、外面と内面とのおそろしい乖離、あらゆる精神と神経のデカダンスに青空と黄金の麦の色を与える傲慢、・・・これらのものは、ヒロポンも阿片も、マリワーナ煙草も、ハシシュも、睡眠薬も、決して与えない奇怪な症状である。』
    これは三島由紀夫の一文であり、新潮社『川端康成全集11』月報 昭和三十七年八月に掲載されたもので、タイトルは「最近の川端さん」となっている。川端康成の睡眠薬事故にかかわる短文の最後にこの一文がでてくる。
    意外な出会いに驚き、一読して苦笑気味に強く共感をおぼえ、これをきっかけにして久々のブログに向かおうと思いたった。
    この文章のアイロニー、大げさな身振り、スポーツへの屈折した愛着がいかにも三島らしく、一方私にはそうした資質にほどんど欠けていると自覚しているのだが、スポーツをこのように語ることに感嘆をおぼえ「そう、そのとおり」と喝采をあげたのだった。
    「各種の運動の裡にひそむ奇怪な官能的魅力」という言葉には、私がトライアスロンを続けていくなかで発見したスポーツの魅力、しかもこう言われて初めて気が付いた魅力を見事に言い当てている。
    さらにこの「官能的魅力」こそが、大衆消費社会とグローバル化が進むなかで、スポーツが一大産業とまでなり、いま様々なに語られているオリンピックという山脈を育ててきたマグマのように思えてくる。金権とはいうが「お金の魔術」こそは私たちの社会の根幹でもあるではないか。
    官能とは生きる魔術であり、だから奇怪であり、人は官能のために死さえ求める。

    この文を読んだのは『谷崎潤一郎 川端康成』というタイトルの中公文庫で、タイトルどおり、三島由紀夫の谷崎に関する文と川端に関する文を集めたアンソロジーとなっている。この本を買ったのは三島由紀夫が谷崎をどのように語るのかに関心があったためで、川端康成は三島をとおして関心を抱きはじめたばかりで、この本を読んで『雪国』を買ってはみたもののまだ読んではいない。多分肌合いが違うのだろう。
    こんな具合なので、冒頭に掲げた一文との出会いはまったくの偶然であり、こんなところでこんな人に出会うとはまったく思ってもいなかった、というところなのだ。

    そこで話は谷崎潤一郎に移る。久しぶりにこの本を読むきっかけになったのが谷崎の『猫と庄造とふたりの女』をこれも久しぶりに読んだことにある。寝しなに「今日は何を読もうか」と思いながら本棚を眺め、ああ谷崎が読みたい気分なのだと自己納得して読んだ。
    これは好きな作品で何回目かの読書となり、その豊かな文体を楽しんだのだが、私にとっての谷崎の魅力とはこの文体の官能にあり、また谷崎の描き出す奇怪な官能こそは谷崎を作家たらしめる生涯のテーマであった。
    さらに、巻末の解説が磯田光一で、こいつが引っかかって『谷崎潤一郎 川端康成』のページをめくることになったのだ。
    ずいぶんと回りくどい説明となった。

    『男女同権の思想も、社会の改革のめざす思想も、一匹の猫を愛したために苦しむ庄造の心を救いえない。それが谷崎潤一郎の思想であり、彼の文学の真の異端性の根拠でもある。人間は進歩や開放など求めてはいない。あるいは自由さえも求めていない。人間が心の底で求めているのは、女であれ猫であれ、あるいはイデオロギーであれ、一つの対象のために奴隷になることである。そしてそのために身を滅ぼすこと以外に、人間の栄光はもはやないのかもしれないのである。もしこういう感覚を理解できないなら、そういう人は、あの楽天的な“進歩と改革”の理想を信じ続けるがよろしいであろう。』
    ここまで書いてきて、腑に落ちたところがある。
    谷崎を読み始めたのはいつ頃であったのか。文章読本は若いうちから読んではいたが、小説までは手が伸びなかった。谷崎の小説を読み始めたのは、多分50歳になってからだと思う。それまでは山田風太郎の虜になっていたが、それも一段落したところで「刺青」を読み、まさに囚われた。何に囚われたのかといえば「奇怪な官能」であり「身を滅ぼす人間の栄光」かと思う。妻ががんにかかったのが50歳で亡くなったのが55歳。なかなかにきつい日々のなかで、谷崎の描く世界に囚われることで、心の落ち着き先を見つけたのだろうか。
    そしていま、トライアスロンというスポーツの官能に目覚め、老いた日々の支えの一つとしている。
    どうしよう 走りに出るか 迷う夏

    私たちは何をよりどころにして生きているのか。
    何かと騒がしい世にあってどのように日々を処すべきか。

    オリンピックを前にして、開催賛否(主に反対)の声があがったが、反対意見で私の印象に残ったのは「命かオリンピックか」という声と「金権」という非難であり、私からすると「あの楽天的な“進歩と改革”の理想」から発した「正義論」にうつる。
    私は「人は何を売っても許されるが正義だけは売ってはいけない」という言葉を肝においているものである。この「正義論」は果たして私たちの「生きることへの渇望や官能」を満たしてくれるのか。「命かオリンピックか」という非難そのもののなかに「人間軽視」のパラドックスが潜んではいないか。金権非難の声は恥ずべき「怨嗟」から発してはいないのか。
    そんな感想をもって騒がしい世間を遠くから眺めていた。

    写真は夏のヒトコマ。
    さあ、オリンピックを楽しみもう。
    競技の緊張は、試合を終えた選手の表情は「スポーツのもつ奇怪な官能的魅力」を見事に表現してくれるのだ。それは私の命を潤してくれる。その頂点にある舞台こそがオリンピックという祭典なのだ。

  • ラグビーワールドカップの記憶。その5 「楽しむ」ことが価値となって世界を変えていく

    ラグビーワールドカップの記憶。その5 「楽しむ」ことが価値となって世界を変えていく

    振り返ればラグビーワールドカップは「国際スポーツ大会」を越えた「祭り」であったと思う。
    試合は勝つことが価値となる。しかし「祭り」は勝つこと以外も価値となる。
    試合のなかで観客は受動的存在である。しかし「祭り」では観客も積極的な参加者となる。
    試合はアスリートファーストとなる。それはいい。しかし「祭り」は皆で楽しむものでアスリートもその一員である。私はアスリートファーストを当然のこととして語ることに違和感を覚えている者である。アスリートはどう思っているのだろうか。
    試合後に選手が家族を腕に抱いて観客に挨拶する。これはラグビーでは見慣れた光景である。
    今回の大会でも、トンプソンルークが、アイルランド、ウエールズの選手が、子供を腕に抱いて場内を巡った。
    子供の前であれだけ激しく闘ったあとで、観客と同じ家庭人に戻るのだ。
    ラグビーには国際大会とはいえ、日常生活の「のどかさ」がある。
    イングランド、スコットランド、ウエールズ、アイルランドというチーム編成はサッカーも同じだが、ラグビーではアイルランドは国境を越えて南北一体である。フィジー、サモア、トンガという南太平洋の小国が自国の誇りをかけて独自の個性を爆発させる。その頂点にあるのはニュージーランドであり、南アフリカだ。ともに国際政治経済の舞台での主役ではない。ここは強国が対峙して国の威力を見せつける場ではない。
    そしてチームの編成は多国籍である。しかし国への愛着こそがチームの誇りとなっている。私たちはこうした「ONE TEAM」の姿に「ダイバシティー」とはどのようなことなのかを見る。
    私はラグビーチームは基本的には「ラグビー好きな仲間たち」を価値にして成り立っているように思える。そのチームのバックボーンにあるのが、仲間が集まってラグビーを楽しむことできる土地への愛着と尊敬ではないか。なんといっても、日々その土地に転がり、土をなめるのだ。私は勝手にラグビー選手に農夫の姿をみている。
    ここでラグビーを楽しむ仲間が集まって遊んでいるうちにチームができてそれが自然と大会となる。「ここ」はチームを育てる地域社会という土壌であり、「ここ」と「ラグビー」は不可分なのだ。
    ラグビーにはそんな子供時代の記憶を思い起こさせる「素朴」なテイストがある。
    こうしたラグビーの特性が、このワールドカップを「祭り」としているように思う。
    しかしラグビー以外のスポーツにも「祭り」の芽はあり、水をやれば花開くはずだ。

    ささやかながら、ここで私のトライアスロン体験を挟みます。
    沖縄の伊是名島で開催されるトライアスロン大会がある。高校は本島に行くためボランティアは小学生に中学生である。スイムでサンゴ礁を泳ぐ、バイクでは島をめぐる。ランでは島の山道を走る。沿道では、子供からおじいちゃん、おばあちゃんまで、総出でで声援をおくってくれる。大会の夜は体育館で参加選手も大会関係者も泡盛を飲んで踊りまくる。なんと子供も一緒に踊るのだ。そう。盆踊り状態。さらに宿泊先である民家に戻り、家の方々と島唄をうたう。まさに年に一度の島をあげての祭りである。
    この大会に参加した者の意識としては、レースに出たというよりも、村祭りに神輿を担ぎに来た感覚であった。これは実に新鮮な体験で嬉しかった。もちろん国際大会とは比較にもならないが、ここには選手と観客が同じ地平に立って祭りをつくる一体感がある。

    このブログでは、何回も「楽しむ」という言葉を使った。
    団塊の世代の名づけ親である堺屋太一は、googleが出現する以前に「これからは選択のコストを下げることが価値となる」と予測した。慧眼恐るべし。そして、「明治は強い国家を目指した。戦後は豊かさを目指した。これからは楽しさを目指すべき」と指摘した。
    スポーツは楽しさをもたらす。それはわかっている。しかし今回のラグビーワールドカップは、他の国際競技とは何かが違う楽しみもたらした。それはラグビーそのものの面白さ、日本の快進撃。いや、それだけではない。それだけではないことを考えて、このブログ連載を書いてきた。
    それはスポーツのもつ「祭り」の豊かさである。
    この大会は「祭り」としてのスポーツ大会の魅力を、「スポーツ大会を祭りに育てる」気づきを与えてくれたと思う。

    スポーツは楽しいものだ。スポーツには様々な楽しみがある。
    しかし、皆が楽しむためには、それなりの配慮、工夫、創意が必要なのだ。
    ただ選手が強くなればいいのではない。面白い試合であればいいのではない。贔屓チームの勝利が至上なのではない。「NO SIDE 良き敗者」こそが本質的な価値なのだ。
    「楽しむ」ことに向けて、様々な営為が積み重なっていく。
    それは地域社会が総出となって取り組む、とても高度な集団のマネージメントであるのだ。
    そうしたスポーツの楽しさを「祭り」という視点から考えてみよう。
    応援の楽しみはさらに広がるだろう。それが誰であれ、そのとき共に応援する人に寛容になるだろう。
    一人でもいいではないか。
    68歳独身の私はラグビーワールドカップを人生一度の「私の祭り」として堪能した。
    オリンピック・パラリンピックも祭りである。世界最大の祭りである。
    2020年には、大会会場ばかりでなく、日本全国で、さらには広く世界で、無数の多彩な祭りが生まれることを私は期待する。
    私自身もどのような「私の祭り」とするか、そろそろプランを立てなくてはならないのだ。

    私は2020東京オリンピック・パラリンピックは、人類にとって大きな価値を持つものになると考えている。
    話が大きすぎるだろうか。委細の説明は別の機会とするが、私は真面目にそう考えている。
    この時代に、この世界の状況で、世界で最も精緻な都市東京で、誰もがスマートフォンを持って自動通訳と地図案内と観戦案内・観光案内を使いこなし、SNSでつながり、AI技術開花の入り口という時に開かれる、世界が集うオリンピック・パラリンピックという「世界の祭り」。この意味するところを考えてみよう。
    そして2023年にはヨーロッパ・揺れるECの中枢フランスでラグビーワールドカップが、2024年には近代都市の代表である華の都パリでオリンピック・パラリンピックが開催される。さすがにフランスもスポーツのもつ豊かな可能性に気づいていると考えたい。日本・東京からフランス・パリへ。この共同的チャレンジは「共に楽しむことを価値とする」寛容の時代への人類史的な転換となるだろう。
    私はそのように考え、その現代史に参加できる幸運を喜び、「楽しみ」にしている。
    最後に私の感想。
    一番興奮した試合は、もちろん日本・スコットランド。説明不要。
    ラグビーの魅力を堪能したのは3位決定戦ニュージーランド・ウエールズ。両チームに惚れ直した。
    選手のプレーを楽しんだのはフィジー・ジョージア。フライングフィジアンの魔法に浸った。
    ジャパンで最も印象に残った選手はなんてったって福岡。ナマ福岡のスピードは奇跡なのだ。
    そしてラファエレティモシー。いくつもの起点になっていた。
    立川に代わるセンターは誰なんだと思っていたが、中村とともに、見事にその任を果たした。
    こう書いてみると、バックスの野生そのものの躍動が好きなんだなあ。

    写真は決勝戦のパブリックビューイング観戦後に訪れた有楽町のファンゾーンでのスナップ。
    今回の「私の祭り」はこれでお仕舞い。ありがとう。
    次は2020年。もう来年だ!!

  • テレビでオリンピックを観ながら、2020年のネット中継の広がりを期待する。

    テレビでオリンピックを観ながら、2020年のネット中継の広がりを期待する。

     昨日の祝日(山の日)から、世間は夏休みモードに入っている模様。目覚めてはテレビをつけてオリンピックに見入る。これはロンドンオリンピックの時にも強く感じたのが、テレビの放映はあまりに「日本選手オンリー」ではないか、ということ。

    今朝は7人制ラグビーの3位決定戦、日本×南アフリカ戦をNHKで観た。日本は敗れたが、このあとの試合は当然、決勝戦、フィジー×イギリスに違いない。スタンドでは、決勝両国の応援団が騒いでるぞ。でも、テレビ中継はこれで終了。果たして決勝戦は、いつ、どのような方法で観ることができるのか。いまのところ皆目見当がつかない。中継以外のテレビのニュースや情報番組も決勝の模様はおろか、結果も伝えてくれはしない。ラグビーに限らず、そうなんだよな。
    いまネット(Yahoo!)で調べたら43×7でフィジーの圧勝。日本×フィジーは5×20であったぞ。改めて、日本もよくやったと感慨しきり。それとフィジーおめでとう。きっと国をあげての大騒ぎだろうなあ。フィジーの優勝を実況でみたかったなあ。
    NHKテレビでは卓球水谷の銅メダル獲得を中継している。しかし決勝戦についてはまったくわからない。そうそう、柔道もそうなんだよな。銅メダルはよくやった!!なのだが、では決勝戦はどうなのよ。チャンピオンは誰なのよ?との思いが沸き上がる。
    まあ、これは日本に限らず、どの国でも「テレビ」とはそんなものなのではないかと思うのだが、これからはぜひネットでこのあたりをカバーしてもらいたい。Yahoo!のオリンピックページで確認すると、「動画」のコーナーはあるが、「ハイライト動画」に限定されているようだ。
    こうした状態の背景には、もちろん「放映権・放映料」といった問題が根幹にあるのかと思うのだが、東京オリンピック・パラリンピックでは、ほぼリアルか、あるいは1日後でもいいい、すべてのゲームがアーカイブされ、選手名や選手年齢などで検索し、見ることができるようになっていることを期待する。
    さらに、このアーカイブをベースにして、各種のSNSが広がっていけば、スポーツを観る楽しみも大きく広がるであろう。
    東京オリンピック・パラリンピックでITはどのような広がりを示すのか。改めて期待は大きい。
    また、イベントにかかわる者として、こうしたITと「応援イベント」がどのような相乗効果を発揮していくのかも、考えていきたい。
    オリンピックは明日への期待を生み出す力を与えてくれる。
    蝉しぐれ 扇風機とテレビに 日の丸の旗
    昨日から、喉の軽い炎症を感じている。風邪の引きはじめの兆候だな、これは。うーん、この週末が山か。ここを軽く乗りければいいのだが、悪化すると、来週いっぱいは動けなくなるだろう。28日は木更津大会なので、悪化するとしても、1週間前には回復していたい。
    さて、今日はどうする。昨日はスイム1時間、スピニングバイク20分、トレッドミル15分で、やはり元気がなかった。今日は散歩とストレッチで様子をみよう。明日はスイム+バイクのATAトレーニングだが、これは明日の朝の様子しだいかなあ。
    私に夏休みは関係ないのだが、やはり周囲が夏休みとなれば、だいぶ時間の余裕ができていく。本当は絶好のトレーニングの機会であり、その気はいっぱいなのだが、とかくこの世は儘ならない。
    この夏は電子出版に挑戦する予定である。第一号の出版は「58歳トライアスロン始める記」、このブログである。乞うご期待なのである。風邪はそのための励ましと考えて、パソコンに向かおう。
    写真はNHKのニュースサイトからのクリップ。
    NHKでは、海外メディアの扱いをレポートしています。うれしい記事です。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160811/k10010631621000.html

  • 沼津千本浜トライアスロン・駅伝のご報告。三走は今年もスイムが中止でした。

    沼津千本浜トライアスロン・駅伝のご報告。三走は今年もスイムが中止でした。

     今年も沼津千本浜トライアスロンはスイムが、強い水流のため、中止となってしまった。第一走者、第二走者は泳ぐことができたが、第三走者は中止。私は第三走者のため、第二走者からのタッチを受けて、いきなりバイクとなる。

     陽射しは強く、猛暑日のうだるような暑さで、風も強かった。
     バイクの往路は追い風で、ほぼ38~40キロのペースをキープ。フォーム、ペダルの回転とも、いい感じで走ることができた。逆に復路は向かい風で、ほぼ18~20キロと、ガクンとスピードが落ちる。落ちながら、どのあたりがいいのか、ギアのありどころを探るのだが、これがなかなか難しい。往路は2人しか抜かれなかったのが、復路はドンドンと抜かれていく。もがきにもがくのだが、もがけば息があがって続かない。改めて気を取り直し、息が続く限度を探す。これがフィジカルチェック、一方マインドチェックとしては、落ち着け落ち着けと語りかけ、ひたすらにペダルを回すことに集中する。フォームを意識し、背中、腰、全身を使うイメージでひたすら身を縮めて地面をみる。バイクのFINISHが見えてきたときは、本当にうれしかった。
     ランは千本浜の堤防から、公園の松林を走るコースなのだが、ともかく暑かった。とくに喉の渇きが激しく、給水ステーションごとに水を飲み、頭から水をかぶる。もうスピードなど考える余裕もなく、息が続いて足が動くフォームを探り出し、ハイホ、ハイホとリズムをとって走る。堤防のところでは、チームメイトを始めに多くの方々より「岩崎さ~ん」の声がかかる。「はいよ~」を手を振ってこたえる。
     そして最後は駅伝ならではの、チーム3人で手をとりあってのゴール。暑かったけど、心は爽快感で満たされた。
     今年初の大会。昨年11月の伊是名以来の9カ月ぶりの大会。
     感想は、やはり大会はいいなあ、ということ。
     大会だから、あの向かい風、あの暑さのなかでも何とかゴールを目指して、達成感、開放感を得ることができるのだ。大会だから、もがいているうちに何かを見つけることができるのだ。大会ならではの緊張感、お祭り的な感覚もいい。久しぶりの方々に出会い、声をかけあう「社交の楽しみ」も味わった。
     トライアスロンの楽しみは、まさに大会にあることを、改めて実感した。
     次は8月28日の木更津大会。オリンピック距離の51.5キロとなる。スイムが中止になったので、28日までには海練習に行きたいなあ。楽しみに大会に向かう心境にいる。
    猛暑日に 我が身焼かれて ひた走る
     スイムがなかったのが残念。あれほど苦手であったのが、いまは楽しみになっている。特に海で泳ぐことが楽しくなっている。やっていれば開ける世界はあるのだ。これがスポーツの大きな楽しみであると思う。
     今日は写真はレース中とレース後のチーム写真。チーム名は「れれれのおじさん」でした。

  • もう8月、お盆でいまの時をふり返る。

    ロンドンオリンピックが終わりを迎えている。来週は旧盆で夏休みのシーズンである。ことしも残すのはあと4ヶ月半となった。
    歳をとると時の過ぎるのを速く感じるという。そうなのであろうか。私にとっては、今年の正月ははるか昔のことのように思える。思いだしてみても記憶の輪郭は曖昧であり、果たして何をしてたのかなあと首をかしげてしまう。ばたばたと追われて過ごす毎日の底辺で、私にとって時は実にゆったりと流れているようなのだ。北京オリンピックなど、歴史の彼方のような感覚でさえある。俺は健忘症かボケなのか。
    オリンピックに出場する選手にとって、4年というのは基本的な時のサイクルであろう。加えて、スポーツ選手のピークの時は決して長くはない。そうした人にとっての時の流れとは、どのようなものなのだろう。
    間違いなく確かな4年間という時を積み上げてきたであろう選手の活躍をテレビを見ながら、我が身の過ごしてきた時をふり返り、そんなとりとめのないことを考えている。
    今日は千葉の保田での海錬に行ってきた。着いたときはちょうど激しい雨。空には黒雲がひろがり、どうなるかと心配したが、幸いにもそのあとは夏の青空。雨のために水は多少にごっていたが、水温は高く、波も少なく、気持ちよく泳ぐことができた。
    不安の種のスイムであるが、海とウエットスーツにもだいぶ慣れてきた手ごたえがある。スピードが遅い、すぐに腕が疲れてしまうなど依然として課題は山積みではあるが、3年でようやくここまできたという手ごたえはある。
    19日は沼津千本浜での駅伝で、今年で3回目の参加。一昨年、昨年の経験をへて、今年は多少はましなレースができるのではないかと期待している。「てごたえ」「ましなレース」というのは、自分がコントロールしていることを常に自覚し、フォームへの確かな意識をもって一定のペースを守り、安定した呼吸とリズムで泳ぎ、走ることである。
    こうした状態は、私にとってまさにスポーツを楽しんでいる状態、自足している状態である。
    先の木曜には皇居のナイトランに出かけた。7時半スタートの自主錬で、仲間6人が集まり、私は2周を約1時間10分のタイム。1周目走り出しは、は身体が重く、息がきれ、やめようかと思うほどであったが、後半にようやく息が落ち着き、2周目は気持ちよく走ることができた。終えたあとは皆で、トライアスロン仲間がオーナーのイタリアンレストランBOSSOに繰り出し、ワインとパスタとおしゃべりを楽しんだ。
    昨日の土曜日はスイム+バイクのレッスンで、スイムは身体が重く、息が切れ、タイムもあがらず「夏ばて」を実感させられたが、レッスンの内容は「浮く姿勢」づくりで、これはこのところの私のテーマでもあり、大いに身になった。
    バイクはローラー台で下のハンドルを握ってのフォームチェックで、そのあと約40分、江戸川沿いを走った。ローラー台のおけげで、フォームへの意識、手ごたえは一段と高まったように思える。
    こうして文字にすると、58歳で始めたトライアスロンも3年を経て十分な手ごたえとなっているではないかと、改めて確かめる。スポーツは積み上げが効くんだよなあ。不安定で積み上げが効かない人生にあって、これはスポーツによって得る楽しさなのだ。スポーツに人生を見出すわけではないが、スポーツは確かに人生の重石になるようだ。
    おそらく、時を長く感じる理由の一つはトライアスロンにあるのかもしれないと、とりあえず納得しておこう。
    オリンピック 身体で時を 確かめる
    越し方を お盆の夜に ふり返る
    今回のオリンピックで強く記憶に残ったのは、ひとつは女子サッカー。
    時を積み上げたものが見えた。
    それと女子400メートルリレーかな。
    23年ぶりの世界記録に鳥肌がたった。

  • ロンドンオリンピックの開会式。オリンピックはいいなあ、の感想。

    ロンドンオリンピックが始まった。昨日は6:30からATAのランのトレーニングなので4:30に起床し、出かける準備をしながら、落ち着かない状態で、6:10までテレビで開会式を見て、トレーニングに出かける。
    トレーニングは6:30から8:00までのラン、8:30から1時間のスイム。そのあと10:00から12:00まで、バイクの自主錬にでかけた。昨日ははムッとする空気とからみつくような陽射し。まさにうだるような天気で息苦しいほどだ。ちょっと動くだけで全身から汗が噴き出す。眠りが浅く、体調不調で、ランのトレーニングの苦しいこと。続くスイムでは両方の足がつりそうでおっかなビックリ。最後のバイクはさすがに消耗して約25キロ程度、足慣らし程度でいっぱいいっぱいとなった。
    帰宅して冷凍チャーハンとビール。14時から改めてBSで開会式を最後まで見る。しみじみと「オリンピックはいいなあ」という思いに浸った。もともとスポーツ観戦が好きで、オリンピックフアンであるが、今日は開会式で競技ではない。イベントを商いとする人間として大いに興味をもって開会式をみたが、演出に胸打たれたのかといえばそうでもない。むしろやや冗長な印象が強い。いかにも映画監督らしく、ストーリー性と細かなカットを積み上げるモンタージュ的な手法が目についたが、それがためか線の細い感じがあり、ストレートなインスピレーションに物足りなさを覚えた。
    では何がそんなによかったのか。それは開会式全体で示された「肯定的な感情」であることにテレビを見ながら気がついた。人間の努力、対戦相手への敬意、明日へと向かっていこうとする意志などが、「肯定的な感情」をもって語られ、世界から集まった人たちに祝祭という形で共有される。これが気持ちよい。生きることをたたえる幸せな満足感が自然と湧き上がってくる。
    大会委員長のセバスチャン・コーの歓迎の挨拶には、そうした明日へ向けた「肯定的な意志」にあふれており、胸にしみた。演出についても「イギリス人とは何か」を世界に示す「肯定的な意志」に貫かれていたことに好感をもった。ここには愛着をもって時を振り返り、多くの困難を受け止めて静かに前を向く大人の態度があった。これがイギリスというものなのだろうか。であれば、この国は衰えたとはいえ、強いよなあ。
    言い換えれば、いま私たちの社会にはなんと多くの「否定的な感情」が渦巻いていることか。皮肉、冷笑、嫉妬、恨み、訳知りの下品な解説と幼稚な自慢、自己主張。
    ちょっとネットをのぞいてみよう。多くの掲示板やブログでは怨嗟の声が満ち溢れている。
    今回のオリンピックが、ロンドンにとって、イギリスにとって、世界にとって、日本にとってどのような意味をもつのか。というよりも、私たちはそこにどのような意味を見出すのか。
    ギリシャの経済破綻の大きな原因の一つはオリンピックであったという。今回のオリンピックでも、ロンドン東部の経済開発の意義が説かれる一方、このオリンピックは多くの社会的課題を覆い隠すものであるとの批判も目にする。
    しかし、私たちはこのオリンピックを「肯定的な感情」をもって見つめるのか、「否定的な感情」をもってみつめるのか。選手たちの笑顔をみて自らの勇気とするのか、嫉妬と怨嗟を沸き立たせるのか。あるいはこれをスポーツの世界のお伽噺として訳知りな批判を加えるのか。
    それは私たちの社会をどのような感情と意志をもってみるのかということにつながっていく。私たちはこの社会から逃れることはできず、問題のない社会があるはずもないのだから。
    この夏は オリンピックに 酔いしれて
    夏最中 噴出す汗を 散らして走る
    オリンピックに出場する選手たちが、自らのやるべきことを最大限の努力をもって成し遂げたこと、会場の建設から運営警備にいたるまで、多くの人々が自らの業務に取組みこの世界の祭典を創りあげてきたこと。それらを「肯定的な感情」をもって受け止め、それをたたえ、楽しみ、私の明日への力としたい。オリンピックには力がある。

  • 私もアスリート? オリンピック応援の心境変化。

    オリンピックが大好きだ。お金と時間があれば、4年ごとに(冬季を含めれば2年ごとになるか)オリンピックの追いかけをしたいと思っている。何が好きかといえば、やはり、世界最高の能力を備えたアスリートたちが究極の目標としている舞台だからだ。そのパフォーマンスを見るのはそれだけで、ただただ「ありがたい」という気持ちで、同じ人間として理屈なく陶酔する。種目として一番好きなのはなんといっても100メートル。まさに最高中の最高の人間があつまった舞台であり、こちらは純粋に観客として楽しんできた。肉体の芸術だ。
    そこで、今回の冬季オリンピック。私の関心はなんといっても村上愛子であった。金とまでは言わなくとも、村上愛子にメダルをとらせたかった。今日は朝からハラハラドキドキで、見ていられないほどに撞着し、レースが終わったあとは呆然として心落ち着かず、スポーツジムにトレーニングに出かけて自分を取り戻したほどだった。
    こんなふうにスポーツを見たのは始めての経験だ。私はモーグルという競技にとりわけ関心があるわけではない。村上愛子のレースを追いかけてみてきたわけでもない。彼女のパフォーマンスに陶酔したこともない。つまり、村上愛子というモーグル選手のフアンではない。ただ、アスリートとしての彼女のもつ前向きな明るさ、心和ます爽快感に心ひかれ、テレビで伝えられる12年の努力の軌跡を目にすると、応援せずにいられなくなる。
    そうした心理は、彼女の多くのフアンにもあるものとは思うが、私の場合、誠に恥ずかしながら、自分としては、アスリートとしての共感があるように思えている。その共感というのは、「修練」への共感とでもいおうか。自分もささやかながら、トライアスロンという修練に向かうなか、オリンピック選手への、一流のアスリートへの、人間としての尊敬の念といったものが芽生えてきた。
    あそこに行くまでにどのような努力を積み重ねてきたのか。しかもその努力の積み重ねが一瞬にして崩れてしまうこともある。特にモーグルなんて競技はアクシデントの要素が極めて大きい。それを前提に向かっていく人々の勇気に心うたれる。
    こうした心境は、年寄りの趣味とはいえ、トライアスロンを始めて初めて知ったことだ。
    始めてみることで知ることは実に多い。というよりも、私たちは始めてみることでしか、何事かを知る方法はないのかもしれない。こうした考えも、いま、こうして書くことを始めてみることで知ったことなのだ。
    踊るよう 滑り降りるや 美しき
    息をつめ 雪のカナダに 思い込め
    私のバンクバーオリンピックはもう終わったような思いでいる。