カテゴリー: トライアスロン

  • この3連休のテーマはリセット。千葉シティトライアストンまであと20日。

    この3連休のテーマはリセット。千葉シティトライアストンまであと20日。

    今日は3連休の初日・土曜日だ。
    トライアスロンのトレーニングに向かうためにいつもと同じように6時に起床。
    外は激しい雨で、寝床の耳に雨音が響く。
    昨夜は3時にトイレで目覚め、そのあとの睡眠が浅く、うつらうつらと夢にうなされるままに、目を開けるとちょうど6時であった。
    なぜなのか、うなされた夢のシーンは、フェレデリコフェリーの映画「カリビアの夜」で、ジュリエッタマシーナがマンボを踊るシーンだった。確かに、私は「マンボ!!」といって踊りだすこのジュリエッタの「侘しき愛らしさ」といった風情がが大好きなのだが、このシーンが、ジュリエッタのステップが、マンボのリズムが、果てしのないように、繰り返して夢に現れるとなると、なかなかに狂おしい。
    今日は休みにするか、とも思ったが、思い切って起き上がったのだが、身体はだるくもあり、変な緊張感で気がたって、明らかに寝不足を伝えている。家をでるまで行くか行かないか迷いのままに、結局は土砂降りのなか、自転車で傘をさしてジムへ。こんな激しい雨のなかで自転車を走らせるのは、以前にロタ島のトライアスロン大会で、バイク中にスコールに見舞われたことを除くと初体験である。
    事故が怖くて「落ち着け、落ち着け」とおまじないのように口の中で唱え、びしょぬれでペダルを回した。
    「70歳にもなって」と苦笑する自分もいるが、まあ、だれに言われてやっているものでもないのだ。

    8時30分からスイム。
    10月10日の千葉シティトライアスロンまではあと20日になってしまった。
    そこでウエットスーツを着たのだが、泳ぐとなんとも息が切れる。50メートル泳ぐと1分近くの休みが必要なほどで、トレーニングは勝手に半分に間引いて、本来の目的であるウエットスーツを着てのフォーミングだけを意識した。それはそれで、キックに多少の手ごたえは得たものの、この息切れはなんだろう。
    寝不足の疲れか、あるいはこのところ感じている疲労感なのか。いやいや、今朝体重計に乗ったら、普段よりも3キロ近くオーバーして驚いたのだが、そのせいなのか。
    今日はともかく何もせずに寝ることにしよう。

    少し雨も収まってきた12時に帰宅し、スーパーで買った350ミリリットルのアサヒスーパードライと、鳥弁当を食べ、横になって気が付いたら午後6時を過ぎていた。
    寝床で1時間ほど本を読み、起き上がり、改めて体重をはかると、先ほどから2キロ減。ホントかよ。
    同じく昼に買ったおいなりさんをつまみながら、パソコンでラグビー対抗戦明治×立教をオンデマンドでチェック。
    どうも今年の明治はプレーが軽く、イラつくなあ。

    そして、いま夜の9時50分。今日は何もしないでひらすら眠るつもりであったのだが、これを書いている。
    こんなときに、一人住まいを実感する。

    今年の2月に70歳となり、6か月が過ぎた。
    昨年の長良川大会に出たのが10月17日。
    それは2021年に開催予定であったワールドマスターズゲームズへの参加資格をとることが目的で、そのワールドマスターズゲームズの開催予定は、いま大会のホームページを見ると2022年5月13日から5月29日までの予定となっている。今回の千葉シティは、この5月の大会に向けたステップという位置づけであり、昨年末の目論見としては、長良川大会以降、改めて身体を整えて、この千葉シティに向かい、ワールドマスターズゲームズへの弾みをつけたいと思っていたのだが、それが目論見どおりにいっていない。
    下痢と痔の痛み、腰痛、肩甲骨の痛みと、全体に身体のコンディションが思わしくないままにここまで来ている。それでも体重はおまり変わらなかったのだが、ここにきて体重も増えてしまった。
    ことしは5月の連休も、夏休みもほとんど休んだ実感なし。
    コロナ禍のなかで、ほとんど毎日仕事で出かけているような状態であるのだが、それでもストレスはたまっているのか。

    この3連休を大事にすごしたいと思っている。
    ママチャリに 打ち付ける秋雨 揺れるビニール傘

    70歳となった今年は心身体調生活仕事とも、とかく不安的であった。
    この3連休は休み第一でリセットしたい。
    そんな気分でブログに向かった。
    漫然とした内容となったが、まずは書いてみることからリセットしたいと思った。
    写真は私のランニングコースで見た秋の夕暮れ。

  • オリンピック開催にあたりスポーツの裡にひそむ「官能的魅力」について。

    オリンピック開催にあたりスポーツの裡にひそむ「官能的魅力」について。

    『健康というものの不気味さ、たえず健康に留意することの病的な関心、各種の運動の裡にひそむ奇怪な官能的魅力、外面と内面とのおそろしい乖離、あらゆる精神と神経のデカダンスに青空と黄金の麦の色を与える傲慢、・・・これらのものは、ヒロポンも阿片も、マリワーナ煙草も、ハシシュも、睡眠薬も、決して与えない奇怪な症状である。』
    これは三島由紀夫の一文であり、新潮社『川端康成全集11』月報 昭和三十七年八月に掲載されたもので、タイトルは「最近の川端さん」となっている。川端康成の睡眠薬事故にかかわる短文の最後にこの一文がでてくる。
    意外な出会いに驚き、一読して苦笑気味に強く共感をおぼえ、これをきっかけにして久々のブログに向かおうと思いたった。
    この文章のアイロニー、大げさな身振り、スポーツへの屈折した愛着がいかにも三島らしく、一方私にはそうした資質にほどんど欠けていると自覚しているのだが、スポーツをこのように語ることに感嘆をおぼえ「そう、そのとおり」と喝采をあげたのだった。
    「各種の運動の裡にひそむ奇怪な官能的魅力」という言葉には、私がトライアスロンを続けていくなかで発見したスポーツの魅力、しかもこう言われて初めて気が付いた魅力を見事に言い当てている。
    さらにこの「官能的魅力」こそが、大衆消費社会とグローバル化が進むなかで、スポーツが一大産業とまでなり、いま様々なに語られているオリンピックという山脈を育ててきたマグマのように思えてくる。金権とはいうが「お金の魔術」こそは私たちの社会の根幹でもあるではないか。
    官能とは生きる魔術であり、だから奇怪であり、人は官能のために死さえ求める。

    この文を読んだのは『谷崎潤一郎 川端康成』というタイトルの中公文庫で、タイトルどおり、三島由紀夫の谷崎に関する文と川端に関する文を集めたアンソロジーとなっている。この本を買ったのは三島由紀夫が谷崎をどのように語るのかに関心があったためで、川端康成は三島をとおして関心を抱きはじめたばかりで、この本を読んで『雪国』を買ってはみたもののまだ読んではいない。多分肌合いが違うのだろう。
    こんな具合なので、冒頭に掲げた一文との出会いはまったくの偶然であり、こんなところでこんな人に出会うとはまったく思ってもいなかった、というところなのだ。

    そこで話は谷崎潤一郎に移る。久しぶりにこの本を読むきっかけになったのが谷崎の『猫と庄造とふたりの女』をこれも久しぶりに読んだことにある。寝しなに「今日は何を読もうか」と思いながら本棚を眺め、ああ谷崎が読みたい気分なのだと自己納得して読んだ。
    これは好きな作品で何回目かの読書となり、その豊かな文体を楽しんだのだが、私にとっての谷崎の魅力とはこの文体の官能にあり、また谷崎の描き出す奇怪な官能こそは谷崎を作家たらしめる生涯のテーマであった。
    さらに、巻末の解説が磯田光一で、こいつが引っかかって『谷崎潤一郎 川端康成』のページをめくることになったのだ。
    ずいぶんと回りくどい説明となった。

    『男女同権の思想も、社会の改革のめざす思想も、一匹の猫を愛したために苦しむ庄造の心を救いえない。それが谷崎潤一郎の思想であり、彼の文学の真の異端性の根拠でもある。人間は進歩や開放など求めてはいない。あるいは自由さえも求めていない。人間が心の底で求めているのは、女であれ猫であれ、あるいはイデオロギーであれ、一つの対象のために奴隷になることである。そしてそのために身を滅ぼすこと以外に、人間の栄光はもはやないのかもしれないのである。もしこういう感覚を理解できないなら、そういう人は、あの楽天的な“進歩と改革”の理想を信じ続けるがよろしいであろう。』
    ここまで書いてきて、腑に落ちたところがある。
    谷崎を読み始めたのはいつ頃であったのか。文章読本は若いうちから読んではいたが、小説までは手が伸びなかった。谷崎の小説を読み始めたのは、多分50歳になってからだと思う。それまでは山田風太郎の虜になっていたが、それも一段落したところで「刺青」を読み、まさに囚われた。何に囚われたのかといえば「奇怪な官能」であり「身を滅ぼす人間の栄光」かと思う。妻ががんにかかったのが50歳で亡くなったのが55歳。なかなかにきつい日々のなかで、谷崎の描く世界に囚われることで、心の落ち着き先を見つけたのだろうか。
    そしていま、トライアスロンというスポーツの官能に目覚め、老いた日々の支えの一つとしている。
    どうしよう 走りに出るか 迷う夏

    私たちは何をよりどころにして生きているのか。
    何かと騒がしい世にあってどのように日々を処すべきか。

    オリンピックを前にして、開催賛否(主に反対)の声があがったが、反対意見で私の印象に残ったのは「命かオリンピックか」という声と「金権」という非難であり、私からすると「あの楽天的な“進歩と改革”の理想」から発した「正義論」にうつる。
    私は「人は何を売っても許されるが正義だけは売ってはいけない」という言葉を肝においているものである。この「正義論」は果たして私たちの「生きることへの渇望や官能」を満たしてくれるのか。「命かオリンピックか」という非難そのもののなかに「人間軽視」のパラドックスが潜んではいないか。金権非難の声は恥ずべき「怨嗟」から発してはいないのか。
    そんな感想をもって騒がしい世間を遠くから眺めていた。

    写真は夏のヒトコマ。
    さあ、オリンピックを楽しみもう。
    競技の緊張は、試合を終えた選手の表情は「スポーツのもつ奇怪な官能的魅力」を見事に表現してくれるのだ。それは私の命を潤してくれる。その頂点にある舞台こそがオリンピックという祭典なのだ。

  • ランのトレーニングについて考えをまとめました。早走と遅走の違いです。

    ランのトレーニングについて考えをまとめました。早走と遅走の違いです。

    今日はトレーニング日よりだった。スイムのあとのランは400メートルの1周コースを8周。これは2週間前と同じプログラム。このトレーニングは8本とも同じスピードで走るのがポイントなんだそうだが、前回も今回もまったく無視して、まだ体力のある1本めは目いっぱい飛ばす。自分がどのぐらいで走れるのかを試したいのだ。今回も前回と同様に1分30秒を越える程度で走ることができた。これを1キロに換算すると4分を切る。
    それから一本ごとにどんどんとタイムは落ちていき、最後は2分20秒程度にまでなった。1キロ換算で6分弱となる。なんとなくわかる感じなんだな、これが。
    同じスピードではなく、勝手に違うスピードにトライするトレーニングとした。
    この違いは何か。これは以前から思っていたことであり、今日のブログはランニングフォームとスピードについて考えてみる。
    1本目と2本目以降では、走り方がまったく違うのだ。早い走り方と遅い走り方の2つがある。これを早走、遅走と呼ぶ。
    もちろん元気があるうちは早走で、疲れて息が切れてくると遅走になるのだが、疲れに限らず、気合を入れれば、早走での走り出しは可能である。しかし、遅走から早走への移行ができない。遅走でだんだんとスピードをあげても早走にはならない。ギヤチェンジができない。これはフォームの問題である。
    では早走フォームと遅走フォームでは何が違うのか。私の感覚では、膝の上げであるようだ。膝をあげてジャンプをするような、はずむような意識で走る。これが早走。早走で走るときは、身体がぶれないようにする。つまり全身を意識することになる。
    一方の遅走といえば、何も考えず、意識せずに走り出す。するとジャンプの感覚は生まれず、いわばペタペタとした走りとなる。いつもトレーニングの走り出しは完全に遅走であり、身体が温まり、呼吸が落ち着いてきて、だんだんとスピードをあげていくのだが、フォームは遅走のままなのだ。なんだかわからないが、そのフォームで固まってしまい、早走へのギアチェンジができない。
    早走=ラン、遅走=ジョグの違いともいえる。
    老いとは心身の委縮であり、老いて失われるのは躍動感である。だから意識をしないで黙って走れば、フォームはジョグとなってしまう。ジョグのフォームで頑張ってもスピードはそうあがるわけではない。
    そのように考えてみる。
    そこからトレーニングを考える。
    ここからは私自身の考えかたの整理。
    私には早走、遅走の2つのギアがある。
    早走=ラン、遅走=ジョグである。
    ゆっくりと走り出し、だんだんとスピードをあげていくにしろ、初めからフォームは早走を維持して、遅走にはしない。ランは走り出しから最後まで早走なのだと覚悟を決める。
    一方遅走はLSDで長い時間の呼吸ジョグトレーニングと考える。
    となると、早走を維持するには、LSDをベースに3キロ程度のラントレーニング、さらにはサーキットトレーニング、体幹強化に脚力(筋力・柔軟性・反発力等)の強化が必要になるのだろう。
    これはなかなか厳しいなあ。
    走り出し 身体包むか 初夏の風
    腰はだいぶよくなっているのだが、痔のほうが一進一退。今日も具合がよくなかったなあ。なんだか「70歳で痔の格闘記」のような具合となってやるせない。何も考えずに思い切って走りたい。来週にはクスリが切れて医者に行く。なんとかしてくれ。
    明日は超久しぶりにバイクに乗ってみようか。
    写真はいつもの散歩コース。東京湾となっているが、東京ディズニーランドに行きつく。そこまで走りにいったこともあった。懐かしく思い出す。

  • トライアスロン、3種目競技であることの魅力、楽しみについて。

    トライアスロン、3種目競技であることの魅力、楽しみについて。

    今日は久しぶりにスイム+ランのトレーニング。
    ランは400mを10本。昨日も神経ブロック注射を腰にうったような状態で、走れるのかどうか、走ってどんな身体の反応がでるのか、不安であったが何とか1本休みを入れて9本をこなした。
    まずは走れた。1本目は1分30秒程度で走ることができた。あとは2分10秒を越える程度であったが、気持ちよく走ることができた。走ったあとに腰の違和感があったが、ひどい痛みや歩けないなどということはない。
    腰と肩甲骨の痛み、痔の炎症で、もう3か月も自粛状態であったが、ようやく8割がた回復かな。これまでは休みながら最低限身体を動かす状態であったが、トレーニングをしながら回復を管理できる状態になれたようだ。
    となると一日の時間割も日々変わっていくんだよね。自分と対話し、考えつつ、どうかな、6月末ぐらいまでに「よしっ!」というところまでもっていきたい。
    今日は私にとってのトライアスロンの魅力について、改めて整理をしてみます。
    「トライアスロンをやっています」というと、ほぼほぼ「すごいですね」と感心される。
    たいがい「いやいやそんなことはありません。短い距離もありますし、フルマラソンと比べればレース後の消耗はずっと少ないですよ」とこたえている。それは事実。
    これは「トライアスロン=肉体の高い負担」というイメージからのコメントであるが、いまひとつ「3種目もやるなんて」というイメージもあるかと思う。
    しかし、私にとってのトライアスロンの魅力は「3種目」というところにあると思う。
    そのことをお伝えしたい。

    私がトライアスロンを始め、また続けているのは「生涯スポーツ」の楽しみである。
    55歳で妻をがんでなくし、3人の子供たちも成人して家を出ていくという暮らしの大きな変化のなかで、自然と「生涯スポーツ=老化のなかでも続けていけるスポーツ」への関心が高まってきたのだが、第一候補は合気道であった。男たるもの格闘技はやってみたい。老化の転倒防止にも役立つだろう。ネットで教室を調べていたので、そこで何かの出会いがあれば、合気道に行っていたと思う。
    第二候補は社交ダンス。音楽に合わせて身体を動かすのは好きであるし、女性相手というのも心ときめく感じがあり、これもネットで調べたなあ。
    トライアスロンなんてまったく考えていなかったのだが、あるパーティで順天堂大学でトライアスロン選手だったという人と「生涯スポーツ」の話をしているうちに「だったらトライアスロンがお勧め」といことで、始まった。まったくのもののはずみなのだ。
    スイムは25mがやっと、バイクは乗ったことなし、ランはジョギングのみの状態でマラソン大会なんて無縁であった。体型は立派なメタボである。でもなぜなのか3種目で大変とは思わなかった。むしろ好奇心が湧いた。いろいろやれて面白いじゃないか、ぐらいの感覚で、それは今に至るまで変わっていないようだ。楽天的でいいかげんな性格なんだな。
    例えばランだけとしてみよう。きっとタイム向上に励むことだろう。スイムだって上達に向けたストイックな暮らしになっていたかもしれない。これは個人的な趣味の問題なのだが、もともと人と競い合うこと、闘うことが苦手嫌いである。
    3種目となるとそうした「極める、闘う」意識は低下するのだ。今日は泳ぐか走ろうか、久しぶりにバイクに乗るかと、いたってテキトーに楽しめるのだ。それが私にあっている。
    1500メートルを泳げるようになり、マラソンを完走できるようにようになり、ロードバイクに乗れるようになればそれでいいではないか。十分だよ。そんな感じで取り組んできたが、いずれも達成することができた。ロードバイクで琵琶湖一周なんて経験も得た。このことは満足している。

    闘うことが苦手嫌いであるが、トライアスロンのレースは楽しんでいる。レースの準備、会場の雰囲気、終わったあとの安堵感はいい刺激となっている。この刺激は自分ひとりでコントロールできるものであり、それは贅沢なことなのだ。独り身の暮らしのなかで、そのことを楽しんでいる。
    あと、練習でもレースでも、常に、ほぼ最下位ポジションであるが、私の場合、多少情けない気分はあるが、大きな苦にはならない。目標は安定した呼吸で時間内完走することであり、要は自分のことしか考えていないのだ。

    走っていると 空が気になる 梅雨の空が
    「無理はしないで」と多くの方に声をかけていただき、ありがたいことと感謝している。
    このお声掛けは、しっかりと受け止めている。
    でも、ちょっと無理するところが生涯スポーツの楽しみでもあるのだ。
    そのあたりの塩梅を計りながら、様子を見ながら続けていきたいと思う。
    当面の目標はワールドマスターズゲームズ2021関西。
    2022年5月21日(土)の開催予定なので、ちょうどあと1年。
    しっかりと準備を重ねて、準備を楽しんで、その日を迎えたい。
    今日の写真はワールドマスターズゲームズ2021関西のホームページのキャプチャー。
    ご一緒される方はよろしくお願いします。

    最後に、オリンピック開催が論議になっているが、私は開催賛成です。

  • 水泳と肩甲骨と腰の痛みについて体験的報告。

    水泳と肩甲骨と腰の痛みについて体験的報告。

    トライアスロンを始めてから、ずいぶんと身体のあちこちを痛めてきた。
    いちばんひどいのは、バイクの落車による右肩のヒビ。バイクと言えば、不自然な姿勢で顔をあげるので、頸椎を痛め、左腕がしびれてブロック注射を打ったなあ。
    足は左足の足底腱膜炎。痛くて階段を降りるのが難儀だった。5キロ以上の長距離を走ると、足指の根本が痛くなり、一足ごとに悲鳴をあげて走っていたことがあった。館山マラソンでは20キロで左足膝を痛め、それ以上走れずに棄権となった。
    これらの痛みはいつしか消えているが、考えてみれば、最近は長い距離を走ってもせいぜい10キロで、マラソンにも出ていない。はたして治ったのか、走っていないために痛みがでないだけなのか、わからない。
    スイムはバイクやランと違って、身体をぶつける事故や刺激はない。トライアスロンを始めた当初は背中がバキバキに痛んで整骨院にお世話になったが、それでも「筋肉痛」のレベルであったと思う。以来12年。スイムで身体を痛めることになるとは、思ってもいなかった。
    痛むのは右肩甲骨の下のほう。泳いでいるときは痛まず、何もしないときにジーンと痛む。痛み出してから1カ月ほどになるか。次いで腰が痛むようになる。これは右手を伸ばした折にちょっと腰に違和感を感じ、それがだんだんと痛みとなってきた。
    こうした痛みを発生させる原因といえば、フォームを替えてそれまで使っていなかった部分を使うようになったからである。肩甲骨を使うようになり、体側を伸ばしてローリングをするようになったからであり、それは名倉和希コーチのレッスンの賜物であり、言い換えれば12年にしてようやく泳ぐことの入口に立ったことなのだ。
    特にあげたいのが以下の3つ。
    胸をはる(猫背であった)
    肘を起点にして腕を回す(手を意識していた)
    腕を前後にピーンと伸ばす(手をかいていた)

    名倉コーチのレッスンで「まず猫背をなおしましょう」との指摘を受けた。そこでやってみる。
    けのびの姿勢でゆっくりと両手をかく。このときに胸をはるとスピードが違うのだ。スーッと浮いて身体の滑りがよくなる感覚がある。驚いた。これがスタートだった。
    胸をはることと、肘を起点に腕を回すこと、腕を前後に伸ばすことは一連の動きであり、これを稼働させるのが肩甲骨であり、それまでは肩甲骨を十分に使わずにひたすら腕をかいていたのだ。なるほどなあ。
    それはいいのだが、痛みをどうするか。
    整骨院でマッサージを受け、腰については神経ブロックの注射を受けている。
    ネット検索で次のような記事を見つけて、なるほどと納得した。まさにそのとおり。
    水泳肩
    クロールでは、水から抜いた腕を前方へ運び、ふたたび水中へ入れますが、入水前に肩関節は内側に回転し、同時に前方へ思い切り伸ばされます。このとき肩甲骨の強力な靭帯と、上腕2頭筋の腱などがぶつかってこすれ合うことがあります。水中でプル動作が進むにつれ肩を内側へ、脚の方へ強い力で引かれるので、こすれあう腱への血液循環が悪くなります。このようにして腱の炎症が起きると少しずつその部分が肥厚して、まさつが強くなります。その結果おきる肩関節痛が水泳肩です。
    腰痛
    クロールでは、水の抵抗を最小限にするために体を流線型に保つためと推力を強めるため、ハイエルボー(水中で肘を高くして腕をかくこと)を心がけるために、常に背筋を緊張させて腰椎を伸展(前かがみの反対に反りかえるかたち)させています。このような姿勢の保持により、背骨の全長に添って付いている太い筋群が緊張しつづけることと疲労することにより腰痛が出現します。
    中高年では、クロールの呼吸を一流選手のようなローリングで行うと腰椎に強いねじれと過伸展が生じ腰痛を起こすことがあります。見栄を張らずに「丸太泳ぎ」(上半身全体をぐるりとまわして呼吸する)をおすすめします。
    いやいや見栄を張るつもりはまったくない。
    痛むのは右半身で、左はなんともない。クロールは左で顔をあげる。
    名倉コーチによると、痛めるのはだいたい顔をあげる反対側で、クローリングが十分でないことが原因という。
    真面目か冗談か、名倉コーチからは「この際、反対側で顔をあげるようにしてはどうですか」と言われたけど、どうかなあ。まずはチョコっとやってみるか、なんて気になっている。

    薫る風 青葉をめでて 身体の声を聞く
    名倉コーチは整体もやっているとのことで、自宅に来ていただいてボディケアをしていただくことになった。これはまったく考えてもいなかった展開だ。面白い。人生は驚きに満ちている。トラブルは新たな楽しみへの助走なのだ。
    この報告も追っていたします。
    今回は写真なし。

  • 今回は体調管理の話。この土日は身体の不調で休息としました。

    今回は体調管理の話。この土日は身体の不調で休息としました。

    毎週土曜日午前はATAのトレーニングに出かけているのだが、昨日はお休みとした。ひとことで言えば体調不良のためとなるのだが、この体調不良にはいろいろの要因が重なっており、この土日は「ともかく休む」こととし、ひたすら眠ることにした。
    以前から、年に2回ぐらいは何もしないでひたすら眠る日を過ごすようにしているのだが、今回もそのタイミングと思って判断をした。とはいうものの、本日日曜は天気に誘われ、5キロウォークをしてしまった。やめればよかったか。いささか後悔している。休む時は休まねば。
    さて、今日は体調管理の話です。70歳の体調管理の一つのサンプルです。
    70歳にしてトライアスロンといえばいたって健康そうだが、このところ1日に次のクスリを処方している。数字は錠数。
    高血圧    朝2 夜1
    高脂血症   朝1
    逆流性食道炎 朝1
    整腸     毎食後2+1
    痔の炎症   毎食後1
    痔の軟膏   日に2
    花粉症    夜2
    通っている病院は高血圧、消化器外科・肛門科、アレルギー、歯医者(歯周症ケア)、ペインクリニック・整骨院。
    確定申告では昨年の医療費は15万近くになった。体調管理に使う時間も金も大きく増えて保険料の恩恵を十分に受けている。実感では3年ほど前、67歳あたりからか。65歳にはまだ日々自覚するまでに至っていなかったと思う。
    病院に行くことが日常となり、否応なくいろいろと対応策を考えるのだが、なかなか「解決」とはならない。これが老いの一局面なのかとも感じている。

    高血圧は半ば諦めているのだが、痔がなかなか完治せずにまいっている。当たり前のことだが、身体に痛みや不具合を感じるのがいやなのだ。痔の原因はこれも3年ほど前からの過敏性腸症候群による下痢で、子供の頃から愛飲している牛乳をやめるなど、食べ物の工夫もしているのだが、なかなか思うようにいかない。これも老化の一つなのか。
    加えてこの1か月は肩甲骨と腰が痛み、整骨院に通い、神経ブロック注射を打っている。
    その腰の痛みが増してきた。
    更に疲れがたまっている感覚がある。多分肉体的なもの以上に精神的な疲れが強いように思う。確定申告で疲れたからなあ。
    ということで、この土日を休息にあて、少なくとも腰痛と痔を押さえてリセットしたいと判断した。ともかく寝て疲れを癒し、身体の回復力をよみがえらせるのだ。

    肩甲骨と腰の痛みは右側だけに出ているが、原因はハッキリしていてスイム。泳いでいるうちはなんともないのだが、じっとしていると、身体の芯のほうから強い痛みを感じて、どうにもならない。
    泳げるものだから、練習は続けてきたのだが、腰の痛みが強くなってここでストップ。オーバートレーニングによる身体の痛みは、それを乗り越えることで新たな成長につながることは経験として実感してはいるが、はたして70歳となった今回もそのようになるのか。これはちょっと興味をもってみている。

    休息による回復のポイントはトライアスロンのトレーニングに向かうようになれること。
    痔が痛み腰が気になるようでは走れない。肩甲骨が痛くてはバイクに乗れない。かろうじてスイムはなんとかできるのだが、バイクはまだしろ思い切って走れないのがつらい。7月には大会を予定しているので、そろそろ大会に向けたトレーニングを始めたいと思っているのだ。
    などと書くといかにも殊勝なのだが、それ以上に、身体の痛みを気にせずトレーニングに向かう日々を回復したい、老いを実感していく中でも、少しでも快適な日々を過ごしたいということなのだろう。となると、あきらめずに工夫を重ねていくことになる。今回の休息もそうした私なりの工夫ということなのだろう。
    この風音は 夏の予感か 血が騒ぐ
    ちょっと疲れた感じがある。なぜだろうと思っている。睡眠時間は十分だが、眠りは浅い。同じように暮らしているのに疲れを感じるのも、これは老化なのであろうか。
    いまもすでにそうであるが、これから老化の研究はさらに進むだろう。
    私も私なりに、体験をとおして老化を見つめていきたいと思っている。

    写真は渋谷宮下公園の様子。東京オリンピック・パラリンピックをターゲットに整備をしてきたのだろうが、私は街として新たな魅力を感じた。お薦めです。

  • 前回の続きを書いていたら茫漠たる話となってしまったが基本は高齢者スポーツの楽しみ。

    前回の続きを書いていたら茫漠たる話となってしまったが基本は高齢者スポーツの楽しみ。

    前回のブログで生きているうちにやっておきたいことを挙げたのだが、このことでちょっと追加説明をしたくなった。
    70歳となれば、いついくのかもわからない。明日お迎えが来るかもしれない、というのが前提で、このリストは「死ぬまでに済ませておきたいこと」ではなくあくまで「生きているうちにやっておきたいこと」であり「生きている時間の望ましい過ごし方」であって、結局それができなくとも、ほかのことで忙しければ致し方なく、それが不愉快でもなんでもない。

    振り返ればトライアスロンも「生きている時間の過ごし方」としての好奇心から始めたものであった。
    トライアスロンを始める心のありかたを、このブログの当初に書いているのだが、それからもう12年もたってしまっている。かといって始めるときの心のあり方といま続けている心のあり方が大きく変わっているわけではなく、要点は「毎日何をして過ごすのが心地よいのか」ということになる。だから「これを続けていってなにかをなせばそれで満足」ということではなく「どこに行くのかもわからないがこれを続ける毎日を心地よく過ごすことが大切」となる。
    ここでわきまえておくべきことは「いまこれをしていれば心地よい」ことと「これを続ける毎日の心地よさ」とは大きく違うということで、苦行難行はその時々はつらくともそれを続けている毎日の心の安寧、充足、落ち着きということはあるだろう。
    私は「スポーツを続ける楽しみ」とはそうしたことであり、私のとっての生涯スポーツとはそうしたものだ。簡単に言えば身体が続くうちは続けていくという快楽を私は味わっているのだろう。動いている身体に感謝というわけだ。
    若いうちは今日のこと、明日のことなど考えない。しかし歳をとると何も考えず、ただ漫然と日々を暮らしていくことはできなくなる。何らかの工夫と自己管理、あるいは自己修練といったものが必要になるのだ。
    そこで話はスポーツの魅力となる。
    まず汗をかく楽しみ。これは身体を動かすことそのものの楽しみといっていい。
    これが第一だな。ここには健康でいることの快適な心身状態が含まれる。
    そしてやっていけば上達という励みがある。私のようなへっぽこ高齢者でも、まだ「どうすればもっとうまく泳げるのか」なんて考えている。これは自分自身と向き合う楽しみであり、第二にこれをあげたい。
    よく高齢者スポーツで同好の仲間に出会う楽しみがあげられており、それはそうだが、身体を動かして汗をかいているのは自分自身であり、その優先順位は大切なのだ。高校時代はハンドボール部でインターハイ出場は私の唯一の自慢のようなものであり、チームスポーツは知らないではないが、高齢者のチームスポーツというのはちょっとわからない。ゲートボールはあればチームスポーツなのだろうか。
    風と雨 春来りて 胸騒ぎ
    書いているうちに、茫漠と話が広がってしまった。
    また、これまで何回も書いてきたことを繰り返しているようで、苦笑いで己の老化を振り返る。
    写真は最近思い立ってでかけた九十九里の波。毎年のトライアスロン大会会場でもある。
    寄せては返す波のように、あるいは性懲りもなく、私は同じことを繰り返しているようだ。
    そんなしみじみ気分でじっと波を見ていると、いまこの時こそが永遠なのかと思われてくる。

    みつけた
    何を
    永遠さ
    それは太陽が海にとけていく
    残念ながら曇り空であったが、そのように歌ったランボー気取りとなり、帰りの特急電車で缶ビールをあけてポテトチップスをかじった。
    不要不急の身勝手外出なので、申し訳ない気分があるなあ。反省。
    でも九十九里まで特急で1時間。現地で2時間海を見て帰る。
    半日コースで、思い立ってでかけるのはお薦めです。
    ちなみにランボーの詩の訳については、幾多のものがあるが、これは私の記憶にあるもの。
    私はこのように記憶して、時折頭に浮かべているが、多分正しい翻訳ではないと思う。

  • ご無沙汰しているうちに70歳の誕生日を迎えました。

    ご無沙汰しているうちに70歳の誕生日を迎えました。

    もちろん、年齢を重ねるというのは継続的なもので、誕生日になって何かが変わるわけではないのだが、それでも自分の来し方行く末を改めて見つめる機会となる。
    来し方については、あまり過去を振り返らないようにしている。いい思い出も多くあるが、恥ずかしい、なんであんあことを、もう少しどうにかできなかったか、などという思いが先に立ち、心落ち着かなくなる。人生成り行きで生きてきたので、しっかりと自分を積み上げてきたという実感もない。こうしたデリケートな問題には近づかないのがいいと思い定めて避けている。
    行く末であるが、やはり「残りは何年か」の意識が強くなる。あと何年元気でいられるか、その間に何をしておくのか、時間は限られているということを実にリアルな実感としてとらえるようになり、時間割が気になってくる。
    これが70歳になっていちばんに感じたこと。
    限られた時間を嫌なことにつきあって過ごしたくはない。俺には時間がないんだよ。偉そうにそんな気持ちが強くなる。
    基本的には、振り返りはせず、遠くに目標を置くのでもなく、毎日毎日走っていって、力が尽きたら、はい終了というイメージでいるのだが、これを世間一般で言えば「ピンピンコロリ」というやつだな。
    また、生きているうちにやっておきたいことがあり、時間割はこれを中心に考えないといけない。
    そこで、やっておきたいことを書き出してみよう。(以下順位)
    いずれも実現できることに限る。
    1 できるだけ長く仕事を続ける
    やはりこれが一番だな
    収入を得ることが暮らしの基本
    そして仕事はおもしろい
    2 個人ホームページの開設
    いろいろと挑戦している積年の課題 今年の5月目標
    乞うご期待!!
    3 富士山登山
    日本人なら、という気分 来年かな
    4 2022年関西ワールドマスターズゲームトライアスロン参加
    どうやら参加資格はとれているようだ
    来年は富士山登山とこの大会
    5 試論作成
    これまでかかわって考えてきたことをまとめたい
    イベント・スポーツ・情報化など
    このブログも整理してまとめたい
    個人ホームページ開設に合わせて進めたい
    6 トライアスロン大会毎年参加
    そのための身体をつくり、緊張を楽しむ
    7 ラグビーワールドカップ
    2023年フランスは無理かな なら2027年に
    8 熊野古道旅
    これも日本人なら 行く前に少し勉強しておきたい
    9 夏の北海道
    札幌は一時頻繁に行っていたが 夏に鉄道で1週間程度
    イメージとしてはかなり先に お年寄り旅行
    10 邦楽(地歌 三味線)
    これも以前から思っていること
    お願いできる先生はいるので、いつか飛び込んでみたい
    軽い気持ちで書き出してみたのだが、いやあ、疲れてしまった。
    でも自分を見つめなおすいい機会となった。
    順位をみるとまずは仕事で次に思索、そしてトライアスロン、旅行となる。
    これは私の暮らしの実感に近い。
    目標ができると何をするのかがわかってくる。
    こうしてみると、旅行がいくつかあるなあ。
    お金がかかるのはラグビーワールドカップで、そのほかは何とかなりそうだ。
    などど、大きな話をしたのだが、いまの課題は「慢性の下痢と痔」の管理というのが情けない。暖かくなってそれを気にせずトライアスロンを楽しみたい。
    日一日 早まる朝を 味わう二度寝
    このところ仕事も忙しく、いい歳をして精神的にも疲れ、やたらに眠い。11時就寝6時に目覚め、しつこく二度寝をして7時に起床。その間トイレはなし。高血圧で痔の痛みに加え、花粉症のクスリも飲んでいるのだが、まあ、元気なんだろう。

    最後に、私は今年のオリンピック・パラリンピック開催を熱望している。スポーツは21世紀の基幹産業であり、社会のエンジン、暮らしの支えであり、その根幹がオリンピック・パラリンピックというのが私の考え。ただのスポーツ大会(その程度のもの)とは考えない。疫病に見舞われたなかでの開催の人類史的な意義は大きい。
    こうした考えも「私のスポーツ試論」としてまとめておきたい。
    写真は春の到来を雲に感じた一枚。私の散歩道での光景です。

  • 謹賀新年。新年のご挨拶を申し上げます。今年もよろしくお願いします。

    謹賀新年。新年のご挨拶を申し上げます。今年もよろしくお願いします。

    当ブログをお読みの皆様。

    明けましておめでとうございます。
    年明けからだいぶ経ってしまいましたが、今年もよろしくお願いいたします。
    いつもそう思っているのですが、今年は週一ぐらにはブログをアップしたい。今年は70歳になります。書くことで老いのなかの自分を確かめ、皆様に呼びかけたいと思っています。

    昨年はコロナ禍に明け暮れ、今年も正月早々の緊急事態宣言となりました。
    皆様はいかがお過ごしでしょうか。
    私はこれまではコロナに見舞われず元気に毎日を過ごしており、知り合いにもかかったという話は、幸いにまだ耳にしておりません。

    テレビやネットではコロナへの政府などの対応に多くの批判の声があがっていますが、こんなときに寄ってたかって、にわか知識に訳知り顔でああでもない、こうでもないなどと非難の声をあげるのは大嫌い。下品だなあと思っています。
    このブログもそうですが、自分がわかっていることを、自分で考えて、自分の言葉で語るよう、自戒しています。
    あと、村上春樹が菅総理の演説を小馬鹿にした発言をニュースで読みましたが、小説家のくせに簡単に人を断罪するなよ、お前に何がわかるんだと思います。これまで村上春樹の小説を読もうと思ったことはないし、今後も一生読むことはないだろう。
    私は終始一貫、政府をはじめコロナへの対応にあたっている皆様に感謝し、この船に共に乗っていることを幸いとし、黙って自分にできること、手洗いとマスク、三密回避などに努めています。これが私の処し方です。

    さて、トライアスロンです。去年を振り返ると。。。。
    長良川大会を目標にしてきたものの、あえなく完走はかなわず、大いに落胆した。
    一方、ATAの中島ヘッドコーチの夏合宿に参加し、スイムとバイクについては、大いに刺激を受けた。これが2大トピックだな。
    それと、記しておかなくてはならないのが、下痢。
    正月から尾籠な話で恐縮です。
    もともと下痢体質であり、数年前はマラソン大会で走っているさなかにもよおして、トイレに駆け込んだことが2回もあった。
    その下痢がひどくなった。昔から排便は朝食後なのだが、3回も4回もトイレに行くようになった。1回目から下痢気味で、4回目はほぼ水だけ状態。それが原因で痔になってしまった。これは困った。走ると痔が痛むので、走る気になれない。
    昨年の暮れには初めて「消化器外科・肛門科」の病院を訪ねて、下痢のための胃腸薬と痔の軟膏を出してもらった。少しは改善しいているが、まだスッキリしない。

    さらに、このところ血圧が高くなっている。3か月に1回、NTT関東病院に通って血圧の診療を受けているのだが、だいたい上が130以下であったのが、140前後になっている。
    そうなのだ。10月の長良川大会以降、体調がいまいちなのだ。大会で痛めた左ひざの痛みも、うっすらと残っている。
    そんな身心の状態で新年を迎え、思うことは「心身の体調維持」。
    心については、嫌なこと、不愉快なことは避ける、距離を置く。
    身については、ささいなことであれ快な状態を目指す。
    それは毎日の過ごし方なんだな。十分な睡眠、40分のウォーキング、ストレッチ、入浴、そしてトレーニング、さらにお酒。酒については、飲まない毎日が身についてきた。
    急がず丁寧に時間を過ごす感覚が大切と自分に言い聞かせている。
    しかし、こうした方向に心身が向かっていること自体「老化」と思うのだ。
    無茶を楽しみ、無茶しても悲鳴があがらない、というのが若さというものであろう。
    老化の自覚として「疲れ」を感じるようになっている。
    特に夕方以降、仕事に向かう意欲が起こらない。
    といった調子で「我が老化」を見つめている。
    トライアスロンを続けているが、アンチエイジングに関心はない。
    老化は自然の摂理であり、拒否するものではく、受け入れるものだ。
    その老化を、できるだけ手に取るように敏感に感じたい。
    それがトライアスロンを続ける大きな理由になっている。
    ああ、こんなことができなくなるんだ。なるほど。
    ああ、老化のなかでもこうした進歩があるのだ。驚き。
    元日の日は素晴らしい快晴だったなあ。

    快晴に 迎春迎春とつぶやいて 歩き出す
    最近は痔のおかげで走れないこともあり、スイムに向かっている。
    こんな年齢でも多少であれ上達というものがあることを楽しんでいる。

    写真は昨年夏の合宿でのスナップ。
    いい経験でした。

  • シーズンオフの私のささやかな楽しみは「見直し」。

    シーズンオフの私のささやかな楽しみは「見直し」。

    シーズンオフの日々を送っている。
    シーズンオフはシーズンオフとしての楽しみがある。
    左足の痛みがだいぶやわらいできた。焦らず無理して走らずに回復をまつ。
    日一日と回復していく感覚を確かめるのはうれしいものだ。
    常日頃気になっているところを見直してみる。
    これも楽しみだ。
    今日はこのささやかな楽しみついて考えてみる。

    トライアスロンを始めたのがこのブログのタイトルにあるように58歳。来年には70歳になる。始めてから10年もたつのに、できないことを数えあげればきりもないのだが、今年はようやくスイムとランの入口に立ったような気がしている。泳ぐこと、走ることが、自分なりにようやくわかってきた気がしている。
    正しいフォームとはどのようなものか、どのように身体を使えばそのフォームを維持できるのか、フォームを身につけるための練習方法は、といったものを考えられるようになった気がしている。
    たとえばスイムでは姿勢が重要。ランは腰を落とさないこと。これはイロハのイの字なのだが、そのことが身をもって納得できるようになってきた気がしている。なるほどそのとおりなのだということを身体で確かめる。

    プールに入ったらまずけのびをして身体の浮き具合、バランスの感覚を確かめ、その姿勢で胸を張りスカーリング、ゆっくりとキックをうってその姿勢を維持する感覚をつかんでいく。身体をこのように動かすとこんな反応がでるのか、ということに驚き、楽しむ。
    テレビやインターネット動画を見ても、以前よりはるかに、我が事として、実感をもって受け止められるようになった。
    たまたまマイケル・フェルプスのクロール動画を見た。以前であれば、漠然と見ていたと思うのだが、肘の使い方に目がいき「なるほど」と一人納得をした。「肘を立てるとはこういうことなのか」と思った。特に前からのカメラがとらえた映像では肘がまっすぐに立っており、肘から先の脱力までも見て取れる。
    私なりの勝手理解であるのだが、肘をしっかりとまっすぐにあげることで、胸が張れ、クローリングが生まれ、身体が前のめりになり、入水がスムースになり、水中で肘を立てて水を押すまでの一連の流れが生まれる。だから「なるほどなあ」なのだ。
    肘の使い方はこれまでも指導を受けていたのだが、あげる肘が起点で全身が動いていくのだ。これまでは、前に押し出す手が起点だと、それも漠然と思っていた。

    おそらくできる人は考えずにできるのだろう。しかしこちらはそうはいかない。しかしこうして考え考えながら身体と対話することは楽しい。こんな楽しみに出会えるとは思ってもいなかった。
    年寄りには年寄りならではの、能力のないものにもそれなりの、スポーツの楽しみというものがあるのだ。

    ランについても同じようである。起点は肘ということで納得している。ポイントは腰なのだが、まず肘を起点にして振ることで腰が動き、膝をあげて前に進む力がうまれる。なほどどなあ、と感じながら走ってみる。
    ところが、バイクについてはまったくわからないのだ。バイクの姿勢とはどのようなもので、身体はどう動かすのかわかっていない。基本はクルクルクルクルとペダルを回すこと。わかっているのはこれだけで、どうしたら効率よく回せるのかがわかっていない。
    これを何とかしたいと思っている。
    秋空に 流れる雲を 眺め走る
    毎朝の40分の散歩が日課となってきた。風を感じて思わず走り出したくなり、20メートルほど走ってみる。
    コロナの第三波でまた「ああしろこうしろ」と騒がしい。
    マスコミは騒ぐのが仕事であるにしろゲスだなあ。
    私は私ができることをするだけで、できるだけ普通に日々を過ごすことを大切に考えている。
    写真はネットでみつけたマイケルフェルプスのクロールにおける肘。しっかりと立っている。