カテゴリー: トライアスロン

  • 新年初大会。フロストバイトと足の痛み、悩みと苦しみ。

    1月15日に横田基地のマラソン大会、フロストバイトのハーフに参加した。記録は2時間13分56秒。実は一昨年、人生で始めて大会なるものに参加したのがこのフロストバイトで、そのタイムが2時間14分31秒。35秒の短縮というか、ほとんど変わらないというか、どう判断したものか。
    還暦を過ぎ、2歳年齢を重ねての時間短縮なら良しとすべきとの見方もあるだろう。しかし、そのときから比べると、フォームがかなり改善され、スピードもアップしたという手ごたえもあった。その手ごたえからすれば、やはり1キロ6分ペースとして、2時間5分程度ぐらいまでには行きたかったなあ。
    ただし、レースを振り返れば、久しぶりの大会で、スタートして暫くはキロ7分程度ではいり、5分過ぎて身体があたたまってきてからはペースアップのもくろみであったが、慎重に行き過ぎてアップのタイミングが遅くなったかと思う。それと、前回は17キロあたりから足が痛くなったが、今回は10キロあたりから、早くも痛くなり、最後の3キロあたりではペースが落ちて苦しかった。
    この足の痛みについては、走っている最中は足の指の付け根が痛む感覚であったが、今回走ったあと、靴下も脱いで、しっかりとさすりながら確かめると、痛いのはつま先、爪の先端との接点あたりである。しかも、つま先をもんでいると、ジーンと痺れが和らぐ感覚が広がって、すぐに痛みは和らいでいく。つまり連続的に多くの回数を打ち付けることによる単純な痛みであり、関節などに関連するものではなさそうだ。
    それでgoogleで「マラソン つま先 痛み」で検索をすると、爪が剥がれたなど、かなり悲惨なケースが出てくる。それからすれば、私のケースはましなほうなのかなあ、などど思いつつ対応策をみると、痛みの原因として第一に挙げられているのが、靴が小さいということ。小さくてつま先が靴に圧迫されているのが原因で、靴は大きめで足の指でグー、パーが自在にできなくてはならないという。
    しかし、今回私の履いた靴は、そのことに十分配慮したもので、通常25センチであるが、26.5センチにしたものである。靴下も5本指靴下として、紐もゆるめにした。一昨年は、そうしたことは何も考えずでの出場であったのだから、そうした配慮の成果があってもいいかと思うが、なかなかそうはいかないものなのだ。
    ただし今回は、痛みながら走りつつ、いくつかのことを試してみた。ますは走りながら、グーとパーをやってみると、これは無理なくできた。それによる新たな痛みも感じなかった。さらに着地のポイントを意識してみた。このところのフォーム改造で、やや前のめりの感覚で走っていたが、その感覚は保ったままで、指に負担をかけずに母指球への意識を高めて着地すると痛みが多少和らぐ感覚があった。あわせて、ももを振り上げる意識がたかまったが、これはいいことなのかどうなのか。
    ということで、よくわからないが、母指球への意識を高めた着地に取組んでみたいと思う。この27日にドイツ村駅伝がある。コースは丘陵地でアップダウンばかり、距離は一人5キロとだいぶ条件は違うが、新たな意識を試してみよう。
    昨年末に仕事面で急遽の不測事態があり、この新年もその対応に追われて、なかなか晴れやかな気分にはなれない。そうしたなかでのハーフマラソン。走りながら、さまざまな想いが頭をめぐり「これは忘れられない大会になるだろうなあ」と一人苦笑した。
    「走っているうちはすべてを忘れる」という感覚ではない。そのときだけは苦しみや悩みから逃れるものではない。悩み、苦しみは常に、走っているときも、泳いでいるときも、私とともにあって振り払うことはできない。むしろそうした状態にありながら、走ることに取組んでいる緊張感や汗を流す高揚感が前向きな心理を作っていくという手ごたえであろうか。
    凍傷と 名乗る大会 足痛め
    あれこれと 思い悩める 走りぞめ
    走ること、泳ぐこと、書くことで自らを確かめ、我が身を励ましていきたいと思う。

  • 2012年、「希望」をもって新年を迎えようと決意を新たに!

    明けましておめでとうございます。
    随分とご無沙汰をしてしまいました。
    その理由というのは年末年始のバタバタで、それも忙しかったということばかりではなく、仕事のうえで予定していたことが突然に変更となる、期待していたことが大きな失望となるなど、なかなかに過酷な状況で、心理的にも余裕をもてなかったことが大きい。自営業はけっこう大変である。
    そんな状況のなかでのメールの年賀状は以下のものとした。
    皆様に年賀状をお送りいたします。
    2011年。
    明けましておめでとうございます。
    旧年中は大変お世話になりました。
    大きな時代の変化の只中にいることを、あちこちの場面で感じています。昨年の大震災はそうした変化を一層際立たせたように思います。
    そんななかで、いつからか「希望」という言葉がいつも頭のなかでひっかかっています。「希望とはいいものだ。何よりもいいものだ」。
    また、こうした変化のときは「変化の風を全身で感じて歩き続けること」が肝要とも考えます。
    共に歩みながら、さまざまで、想い想いの「希望」をつくりだし、育んでいきたいと思います。
    そんな仕事をしようと我が身に言いきかせております。
    今年もよろしくお付き合い、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。
    あえて記憶に頼って書いているが「希望とはいいものだ。何よりもいいものだ」というのはスティーブン・キングの小説「刑務所のリタ・ヘイワース」にある一文で、この小説を読んだのはもう20年も前になるだろうか。以来、この言葉は常に私と共にあった。なお、この小説は映画「ショーシャンクの空」の原作である。
    映画もいいが私は原作の示す主人公の勇気に魅せられた。とくに印象に残ったのは脱獄のシーン。主人公は下水道をはって出口を目指すが、出口には鉄柵があるのかも知れない。しかしそのリスクを十分に認識したうえで、不安を胸にいだきながら、でも勇気を振り絞り、暗く汚水に満ちた下水道を一人無言ではっていく姿に身震いしたことをよく覚えている。このあたり、スティーブン・キングは本当にうまい。その魔術にかかった私は、生きていくということはそのようなものであると悟った。
    またそれは、この年齢になってトライアスロンを始めたという心境につながるものである。
    私にとってトライアスロンを始めることは、自ら希望をつくり出すことでもあったのだ。
    今年はオリンピック仕様を手の内に入れることを目標にする。落ち着いた気持ちで、わくわくとした期待感をもってスイムのスタートにたつことを計画して実現する。それは生涯スポーツとしてトライアスロンを楽しむという大きな希望をつくり出すことであると信じている。
    寒風を 胸に呑みこみ ひた走る
    寒空に はうようにして 汗をかく
    今日は新年のご挨拶。
    いつもと違う調子となったが、これが現在の素直な心境だ。
    年末は29日に千葉県手賀沼でロングライドの自主錬習会。
    明けて2日に初ラン自主錬30分で、3日は初詣ランを13キロ。
    今日は姉と一緒に横浜の墓参りを終え、帰りがけにランニングシューズを購入した。
    明日は初スイムに出かけたい。水が懐かしい。
    身体を動かすことで年末に負った傷を癒し、新しい希望への力をつくり出すことにしよう。

  • 来シーズンに向けて、現状確認を試みる!

    このところ、西オーストラリア、タイのプーケット、メキシコのコスメルでアイアンマンの国際大会が開催され、私の知人も多く参加し、見事に完走している。
    シーズンオフに入ると来年はどの大会に出るのかが話題となるが、ロングやミドルを目指す人が多い。
    そうした状況に刺激をうけて「よし俺も目指すぞ」といった気分には簡単にはなれない。私の場合、昨年は伊是名がほぼミドルの距離であったがスイムでタイムオーバーとなった。あるいは冷静にこれまでをたどってみれば、オリンピック仕様でさえスイムでつまずき、完走はしているものの、まともにこなせたとは言いがたい。とてもそんな気分になれないゆえんである。
    いま考えている私の来シーズンのトライアスロン予定は概ね以下のとおり。
    6月   天草 オリンピック
    7月   昭和記念公園 スプリント
        館山わかしお オリンピック
    8月   沼津  駅伝
    10月  横浜シーサイド八景島 スプリント
    11月  伊是名  ミドル
    この2年はホノルルからシーズンをスタートしたが、来年は天草に行ってみようと思っている。岩田コーチも参加するとのことで、熊本には知り合いもいるので、その気になった。石垣など、4月から大会は開催されるが、私としてまだ冬を越えたばかりの4月ではちょっと準備が不十分の気分がある。5月の連休でしっかりと準備を整えてからシーズンに入りたい。
    館山は来年で3回目となる。近い場所というのが第一だが、この3年間の推移を見てみたいと思っている。オリンピックを普通にこなせることが来シーズンの第一の目標で、そのうえで伊是名に再チャレンジしてみたい。こう考えると、伊是名はどのようになるのか、大いに楽しみとなる。
    スプリントはいわば練習の延長の感覚で楽しみたい。昭和記念公園は公園内の環境が好きだ。終わったあとの食事もおいしい。沼津は仲間とメンバーを組んでの参加の楽しみ。横浜シーサイドは今年はいい思い出はないのだが、まあ、時期的に伊是名への準備といったところだろうか。
    昨年の今頃は足底腱膜炎のため、まともに歩けない状態であったが、今年は大分様子が違う。まず体重が減り始めており、66~67ぐらいまでになってきた。お腹もへこみ、走っていても身が軽い。年末年始はお酒をコントロールして練習に励み、何とかアンダー65まで持ち込みたい。がんばるぞ!
    いまひとつはパーソナルトレーニングのおかげで、いくつかの成果が見えてきた。第一に歩くのが確実に早くなった。これはパーソナルトレーニングにおけるストレッチングの威力かと思っている。足の運びがスムーズになり、しっかりとした体重移動を意識しながらリズミカルに歩くようになっている。
    それはもちろんランにもプラスとなっており。まずキロ6分は手の内に入るようになった。一昨年の6月、トライアスロンのトレーニングを始める直前にキロ8分で10キロを走って大きな満足を得たことを覚えている。隔世の感があるなあ。さらに、岩田コーチから足の振り上げを指摘され、それをキッカケに6分も切れるようにもなってきた。1月15日にフロストバイトのハーフマラソンに出場する。初参加の昨年の記録は2時間15分程度。今度の記録が楽しみだ。この歳でまだ伸びしろがあることを率直に喜ぼう。
    4月には板橋のcityマラソンがあり、これがフルマラソン初挑戦となる。目標は6時間以内だが、完走までいくかどうか。足の指の付け根に痛みがくるので、タオルを足の指ではさんで鍛えている。
    スイムもパーソナルトレーニングで、ブレス、腕のかき、キックについて、改めて確かな方法に出会い、手ごたえを感じている。自主錬ではこれらのドリルとともに、プルブイをはさんで1500を泳ぐプログラムを始めている。500メートルが約15分で45分はかかる。これはともかく1500という距離と時間を身につけることが狙い。このトレーニングでブレスがだいぶ楽になった。これは大きい。さらに500メートルをプラスして、それを1時間の基礎練習にしようと思っている。キックも力を抜いて足を打つ感覚もわかり始めている。ということで、スイムについてもランの足の振り上げのように、何らかの、ちょっとしたきっかけで次の段階にステップアップできることを期待している。
    バイクはまだちょっと分からないなあ。手ごたえがつかめない。ただし、このところのエンデューロ大会など、経験は重ねているので、できるだけ走る機会を増やしていきたいと思っている。
    改めてこのように書き出してみれば、このところ、特に伊是名以降、確かな進歩が見られるようだ。その理由をあげれば、やはりパーソナルトレーニングということになる。パーソナルトレーニングは1回1時間で7,750円。いまは隔週でお願いしている。多少贅沢とも思われるが、私のような年齢となれば、トレーニング量を増やすことでの進歩は望みがたい。私の身体を理解していただいたうえでの個人対応が効果的と思う。
    ひとつづつ ひとつづつなり 年の暮れ
    木枯らしに 身体を冷やして 前を向く
    今年は大変な年であった。
    よくなんとかここまでやってこれたと思っている。
    年末に会う人の多くは「来年はもっと大変でどうなるかわからない」と言っている。
    トライアスロンを始めていてよかった。
    いまの状態では始められないだろう。
    また、いまの状態でシッカリと日々を過ごすうえでトライアスロンは大いに力となっている。

  • 2週続けての自転車エンデューロ大会 これで今年は終了!

    11月27日(日曜日)、4月の3日(土曜日)と続けて自転車のエンデューロ大会に参加した。エンデューロというのは、どうやら一定の時間を決め、その時間内に周回コースを複数のメンバーで交替しながら走るものをいうようだ。このように書くのは、例えばwikipediaで「エンデューロ」をみると「エンデューロレースとは、オートバイなどで行われるレースの種類である。本来の姿としては、公道を走行出来る保安部品が付いた車両によるオリエンテーリングとラリーが合わさったものといえる。」とあり、どうも私が参加した大会とは大きく趣きが異なる。
    まあ、その由来や語義はともかくとして、ともにサーキットコースを時間以内に走るものであり、11月27日(日曜日)に参加したのは「ツールドひたちなか」。ひたちなか市・ひたち海浜公園周辺公道 安全運転研修所というところの1周3.9kmコースを2時間走る。私はATA仲間の女性のNさんとコンビを組んで30分ずつの交替。コースはけっこう登り降りもあり、30分交替とはいえ、きつかった。
    もう一方は、TOKYO エンデューロ 2011 Bay stage。TOKYOとは言いながら、場所は千葉県袖ヶ浦の「袖ケ浦フォレスト・レースウェイ」。こちらは緩やかな坂が微妙に続く。なにより朝からかなりの雨。私はATA仲間で同じ還暦のSさんとコンビを組んで、午前2時間、午後4時間のエントリーであったが、あまりの雨で交替で待っている時間に身体が冷えるのを避けようと、午前2時間はSさんの一人旅。午後は私の一人旅で2時間を走って終えようということにした。
    午前中はまさに篠つくような雨でSさんによれば「坂はまさに滝」とのこと。ところが、午前を終えたところで雨があがりはじめ、私のときはほぼ雨にたたられずに走ることができた。ラッキー。
    この二つの大会での私なりのテーマは、ひたちなかは「ともかく自転車エンデューロに参加してみる」こと。初体験の様子見だったが、気になっていたのはやはり怖さ。しかし実際に出てみて恐怖を覚えることはほとんどなかった。
    むしろ公道のように人やクルマを気にすることなく、走ることに集中し、爽快な気分を楽しむことができた。
    TOKYO エンデューロは天気予報は雨、実際に朝から雨で、エンデューロではなく、一人の参加であったら間違いなく棄権していたと思う。そのなかでモチベーションをどこに向けるかと大いに悩んだが、会場についてからは「ともかく2時間を連続的に集中して走ってその手ごたえを感じる」ことに集中。こちらは。ひたちなか以上に速いバイクのスペシャリストが参加し、ガンガン飛ばしていくが、私は別世界で、ランでいえばLSDの感覚で走ってみた。この調子であれば3時間もいけるかと思ったが、それでも2時間を走ると右足がつりはじめ、身体も寒くなってきたので大事をとって2時間で終了した。
    高校時代にスポーツ部にいた経験からすれば、トップグループで飛ばしているレベルになるには、若いうちに部活で連日鍛えるといった基盤が必要というのが実感。バイクを扱っている感覚がまったく違う。すっかり慣れきって見るからに自分の身体の一部としている。カーブを抜けたところの立ち上がりの速さ、登り坂で速度が落ちるどころか、むしろアップしているかのようなレース配分、ペダリングの回転の速度など、みとれてしまう。まったく別世界であるが、私なりに参考になったのは、やはり回転の保持かな。無理をして踏み込むよりも、ポイントでは力を入れても、あとは余裕をもった回転を維持する感覚が大切に思えた。それは長い時間を無理なく走るコツのようなもので、ランでもスイムでもそのペースをつかみたいと思っている。
    今年を締めくくるに相応しい二つの大会であった。
    ともかく機会があればつかんでみること。そうすれば何らかの新しい世界に出会い、何らかの刺激を得て帰ることができる。私が苦手のバイクであっても、グンとバイクとの距離が縮まったように思える。リザルトはいつもながらの最下位グループ。人と比べてはとても情けなくてやっていけないが「自己の肉体に関する自己対話」には常に発見と驚きがある。
    寒風を 呪いながらに 汗をかく
    木枯らしに 一人前向き 風をきる
    寒い空気が刺激的でちょっといい感じであった。
    今週から忘年会シーズンのスタート。
    この前の記憶喪失を肝に銘じて今年を終えます。

  • 年末に向かって、この冬の予定は・・・

    昨夜は昨年のロタ大会に参加して仲間となったメンバーでの呑み会。男性3名、女性4名のメンバーで、ボージョレーを楽しんだ。それはいいのだが、途中から記憶を失い、帰りの電車も乗り過ごしてタクシーでの帰宅となった。電車の乗り過ごしはよくあるが、最後に呑んでいて記憶を失ったのはいつだったか。
    さらによくないのはお尻が痛い。これは転んでお尻を打ちつけたためだと思うが、どこでどうしたものやら覚えていない。痛くて便座に座れない。怖いなあ。これから年末に向けて呑む機会が多くなるが、月並みだけど気をつけないといけない。もういい歳なんだから、もっとペースを落として呑まないと。危ない危ない。
    昨夜は今年もロタ大会に出たIさんの報告、これからコスメルのロングに出場するHさんの壮行というのが基本的なテーマであったが、話がもりあがったのが、Sさんがこの週末に行ってきたトータルイマージョンの水泳合宿報告。
    Sさんによると、フォームの全面改良が目的とのこと。早く泳ぐとかいう意識はまったくなく、もっとラクに泳げるようになるのが狙いという。その気持ちはおおいにわかるよなあ。25メートルで24ストロークであったのが、16ストロークまで落とせたというからすごい。私の場合、落とせても19ストロークぐらいだもの。
    Sさんは私と同じ60歳の還暦だが、この前の横浜シーサイドトライアスロンでもエイジ別で2位入賞という実力派。やはりそれなりの工夫と努力があるのだと思う。
    そこで話となったのは、あちこちといろいろに手を出すより、何かに絞っていったほうがいいということ。あちこちのコーチを渡り歩くより、これはと思うコーチについていくことが大切ということだ。
    私もトータルイマージョンのレッスンを受けたり、オープンスイムのレッスンに参加し、それぞれにそれなりのヒントや収穫があるものの、続けていくところまではいかなかった。
    そこでいまのところは、セントラルスポーツ錦糸町の石橋トレーナーについていってみようと思っている。
    費用は1回1時間で7,500円。基本は前半に入念なストレッチを行い、後半にスイムの指導を受ける。気にいっているのは、「身体づくり」から入っていること。私の身体を理解したうえでのレッスンという連続性が明確であり、この冬は石橋さんについて、しっかりと身体づくりとスイム練習に励んでみようと思っている。
    なお、この冬の予定は以下のとおり。
    11月27日 ツールどひたちなか
    12月3日  TOKYOエンデューロ
    12月10日 ATA南行徳忘年会
    12月13日 12月 venga定例会&忘年会
    1月5日  フロストバイト(ハーフ)
    2月5日  神奈川マラソン(ハーフ)
    3月18日  板橋cityマラソン (フル)
    確かに昨年よりしっかりとしたトレーニングができそうだ。
    冬となり また呑みすぎて 寒さしむ
    余計者 酒に呑まれて 鏡みる
    やや二日酔いの一日であったが夜は10時からスイムのレッスンだ。

  • 『走ることについて語るときに僕の語ること』をめぐっての最終回

    『走ることについて語るときに僕の語ること』のなかから心にひっかかったいくつかのフレーズを書き出してみる。
    『毎日集中して物語を書けるというのがどれくらい素晴らしいことなのか(そして大変なことなのか)、身体全体で会得できた。自分の中にまだ手つかずの鉱脈のようなものが眠っているという感触も得た』
    これは走ることについてコメントされたものではないが、「毎日続けることで身体全体で自分の中の鉱脈を発見する」という考え方に共感した。
    身体全体で発見するといっても、自分の身体能力や体力を開発するわけではない。身体を動かすこと、肉体を管理する生活を維持することによって、これまでに得られなかった、あるいは確認していなかった発想や意識を見出して自覚するということだ。私には思考は肉体によって支えられるという感覚がある。
    トライアスロンを始めるにあたって、私を駆り立てたものとは、肉体を通して、日々のトレーニングの中で、まさに村上春樹の言う、「手つかずの眠っている鉱脈」を揺り動かしてみたいといった意欲であったかと思う。
    『与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというもものの本質だし、それはまた生きることの(そして僕にとってはまた書くことの)メタファーでもあるのだ』
    この文章で素直に共感した部分は「個々人の限界」への認識だ。次いでひっかかったのは「有効に自分を燃焼させていく」という部分。とくに「有効」という言葉に考えさせられた。この「有効」とは「燃焼」にかかるのか。あるいは「自分」にかかるのか。では「自分」にとって「有効」であるとはどのようなことなのか。そのようにして頭はめぐっていく。
    このように書いてきて、はたと気がつく。私はおそらく、この年齢となり、自らの終焉という否応もない限界を前にし、身体を動かし、鍛えることで、自分でもいまだよくわかってはいない、自らの可能性を探っていくという冒険に囚えられたのだ。
    これが「可能性への冒険」であるならば、より手付かずで過酷なものに魅せられるだろう。だからトラアスロンであったのかもしれない。
    また「有効」であるとは「燃焼」でも「自分」でもあるとともに、社会とのつながりにおいて「有効」という意味も含んでいると考える。社会とのかかわりにおいて、自分自身にとって、有効な燃焼のありかたを見出して続けるとことと考える。
    一方、次のような言葉も身に沁みた。
    『それに比べると僕は、自慢するわけではないけれど、負けることにはかなり慣れている。世の中には僕の手に余るものごとが山ほどあり、どうやっても勝てない相手が山ほどいる。しかし彼女たちはまだ、そういう痛みをあまり知らないのだろう。そしてまた当然のことながら、そんなことを今からあえて知る必要もないのだ』
    トライアスロンという「可能性への過酷な冒険」に乗り出して、私がまず経験したのは「負けること」にほかならない。「こんなことができるのだ」ではなく「こんなにもできないのか」という現実だ。
    人生において、私も村上春樹に負けないぐらい負けることには慣れているつもりであるが、運動の負けは見事にハッキリとして呵責がない。一人大きく引き離されるというのは気恥ずかしいものだ。最近はテレビで陸上競技を見ても、大きく周回遅れになっている日本選手などをみると、なんともいえない愛着を覚え、その苦悶の表情に見入ってしまう。
    こうした「敗者の自覚と共感」という心境を得たことが「可能性」であるとの言い方もあるかもしれないが、私はそれでは物足りない。トライアスロンを通して持続性が高まり我慢強くなった、いくぶんは社交的になったなど、いくつかの自覚はあるが、いまのところはまだ「可能性の鉱脈への冒険」の最中であると思っておこう。そのほうが気持ちがよさそうだ。
    この本を読んで確かに影響を受けたことがある。ほぼ毎日走るようになった。村上春樹は1日に10キロというが、私の場合、10キロを走ると1時間の昼寝が必要になってしまう。10キロは休日のみで、江戸川沿いを5キロ走っている。
    昨年は足底腱膜炎でほぼ走れず、体重が増えたままシーズンに入ってしまった。肉体としてトライアスリートではなかったことを大いに反省している。今年のシーズンオフはしっかりと走りこみ、体重、体調を管理したいと思っている。
    木枯らしが 胸を冷やして 前を向く
    まばゆい陽 小春日和の ランニング
    陽をうけて、前を向いて、走っていくのは、気持ちのいいものだ。
    気分は冬の空気のように、カラリとしている。

  • 村上春樹の本から、トライアスリートとして印象に残ったこととは。。。

    いま、本を読み返さずに、記憶だけを頼りに、印象に残ったこと、改めて自戒したことを書き出してみる。
    一日10キロ、少なくとも週に5日、50キロは走るとのこと。すごいなあ。一日10キロはちょっと無理だが、1日5キロは走るようにしたい。
    その一日の時間割は、5時に起床、一仕事をすませて、昼前に走るという。
    私の場合もこれだと思う。朝は一番集中力を保つことがでくるので、大切なデスクワークは起きて食事をしたあとの3時間に当てたい。5時起床~7時までに食事とストレッチ~10時過ぎまでの3時間でデスクワーク、メールチェック~ラン30分~11時から食事で12時半に一段落、というのが理想的だなあ。
    そのためには呑み会もコントロールしなくてはならないが、私には「悪いけどお先に」というのが、なかなかできない。ここがポイントだな。
    村上春樹もトライアスロンのスイムで過呼吸の発作をおこしたという。それを描いたくだりは、やはりいちばん撞着した。そのあとの心のもちようも含めて、このくだりは「そうそう」とニヤニヤしながら読んだ。
    バイクについて、その姿勢はあまりに不自然であり、肉体にダメージを与えるものであることを、私がみるところ、相当な熱意をもって書いていたのは大いに共感した。いまバイクに人気が集まり、「バイクっていいよなあ」といったバイク賛美の記事がめにつくなか、私は「何がそんなにいいのか」と皮肉な思いでみているところがある。そんな私の気分にしっくりとした。
    ともかく続けていくことが大事であることが繰り返し指摘されており、それは実に心に染みた。
    続けていくことの何が大事かといえば、満足のいくレースとするうえで大事であることはもちろんのこと、適度な緊張感を日々持続して暮らしていくうえで、とても大事なことなのだ。さらに話を進めて「適度な緊張感を日々持続して暮らしていく」ことの何が大事かといえば、村上春樹は小説を書くことそのものとして捉えているようであるが、確かに長編小説を書き上げるという行為には「適度な緊張感を日々持続して暮らしていく」ことはいかにも大事であろうと思う。
    一方私にとっても、やはり頭に浮かぶのは仕事なんだなあ。仕事を行うということは、「適度な緊張感を日々持続して暮らしていく」ことそのものであり、集中して仕事に向かっていくうえで、毎日肉体を刺激すること、そうした生活を習慣として管理することは、実に有効な方策なのだ。
    さらに言えば、「ともかく続けて」いけば、だんだんと肉体がそれに対応し、気持ちよくなっていくことは間違えない。
    これが運動の面白いところで、例えばランであれば、最初の5分は苦しくとも15分でフォームが固まり、30分を過ぎればランニングハイの状態が訪れる。まるで全身にシャワーを浴びたかのような爽快感が全身にいきわたる。
    苦手なスイムにしても、私でさえ、時折は泳いでいるなか頭に音楽が浮かび、30分も泳いでいられる時間がある。嫌いなバイクでも、サイクリング気分で流れる風景を身体に感じる陶酔がある。その陶酔はまさに「ともかく毎日続ける」ことでしか得ることはできないのだ。「ちょっと麻薬の感覚があるなあ」というのは私のつぶやきで、村上春樹がそんなことを書いているわけではない。
    というわけで、この本はトライアスリート岩崎にとって、大きくプラスになったことは間違いない。
    次に、このブログを書いている岩崎としての感想。
    私がこのブログを書いてみようかと思った理由の一つに、スポーツを行っている人間がダイレクトにその体験を書いている文章がとても少ないという認識があった。その点で、この本はまさにスポーツを行っている作家の肉体の文章として、好意をもって受け止めた。
    スポーツを扱った文章については、試合のレポートは別にして、インタビューや誰かの訳知りの解説はあるが、そうして書かれたものに共感をもったことが少ない。むしろスポーツを文学的な思い込みで分析することへの違和感をもつことが多かった。
    これはささやかな経験であるが、昔テレビですでに病魔に冒されていたモハメド・アリに沢木耕太郎が「あなたのこぶしはあなたに何をもたらしたか?」という質問を発しているのを見て、とても大きな違和感をもったことがあった。「栄光、名声、富、そしてこの病気さ。このこぶしが俺の人生だ」なんて文学的な返事を期待してたのかなあ。モハメド・アリは当然のこととして、このような文学的な質問そのものを理解しているようには見えなかった。テレビは会話にならないやりとりを伝えていた。私はテレビに向かって「勝手な思い込みでバカなことを聞くなよ」とつぶやいていた。
    私としてはそんなスポーツへのアプローチ、人間感動物語りとしてのスポーツドラマ過剰演出勝手解釈ににうんざりしていた。であれば、私が書いてもいいだろうと思ってこのブログを始めた。
    そうした私にとって、この本は、大作家と比較するのもおこがましいことはなはだしいが、自らスポーツを実践する私と同類の人間の思索と言葉として、共感をもつことができた。
    ここには文学的な修辞はない。アスリートとしての真摯な言葉と思索があった。走ることを人生と重ねるものではあっても、安易な人生論で走ることを解説するものではなかった。それはまったく違うものと私は思っている。
    さすがに村上春樹。でも、私とは違う村人なのだなあ。
    落車して 秋の夜長に 腰さする
    秋風に トライアスロン 身の痛み
    どうも、無理に芸のない季語をいれるのは、いかがなものかなあと思いもするが、まあ、シャレとして受け止めていただきたい。
    落車の痛みは和らいできたので一安心。
    でも昨夜は寝返りがうてず、今日もまともにトイレに座れない。
    そんななか、今日はジムに行き、バイクを20分、トレッドミルを20分、スイムを40分。気持ちのよい汗をかいた。
    「毎日続けることが大事なんだよ!」と我が身に言いきかせる。

  • まじめでストイックで誠実な村上春樹が苦手!?なことがわかった。

    今日はバイク錬で久しぶりに落車をしてしまった。江戸川の河川敷から土手に向かって坂を登り、登りきったところでキュッとUターンをしたのだが、ペダルを踏み込んだところで、目の前にママチャリのおじさんと子どもが並んで走っており、オッと、よけようとしたら、おじさんもそちらの方向に進み、あわててブレーキをかけると、アッという間に立ちごけとなった。
    腰を強く打ちつけ、実に痛かった。おじさんも焦って「大丈夫ですかあ」と手を差し伸べてくれ、後ろに続く仲間も声をかけてくれ、ちょっとした集まりとなって恥ずかしいこと。
    まずは息を整え、「先に行って」と仲間と離れ、ゆっくり走ってジムに帰り、お風呂につかって人心地。でもまだ痛い。家に帰り、痛みをこらえて洗濯機をまわし、冷凍チャーハンをチンしてビール。ソファーに横になったら、痛みと疲れと寝不足で、なんと5時ぐらいまでうつらうちらとしてしまった。とりあえずトクホンを張ったけど、まだ痛い。明日はどうなっているのだろう。
    さて、今回の本題は、村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』をめぐる私の心の小冒険。どこから書こうかと迷ったが、まずはこれを書いておいたほうが、素直に先に進めるようだ。
    実は村上春樹の小説はひとつも読んだことがない。はっきりとは覚えていないが、おそらくエッセイも雑誌の掲載を目にとおすぐらいで、買ったことがない。年齢も近いのでデビューした頃からそれなりに関心をもち、雑誌や新聞での文章などは目に通していたものの、一歩踏みこむことはなかった。なぜだろうとも思っていた。
    そのままでいるうちに、村上春樹の人気や評価が高まるばかりで、そうなるとヘソが曲がって「読むもんか」といった気分になってここまできた。『走ることについて語るときに僕の語ること』も知ってはいたが、読んでみようとは思わなかった。
    そんな状態で、今回の経験だが、おおづかみな第一印象は、村上春樹は実にまじめでストイックな努力家で誠実であるということ。それが文章に一つ一つに刻印され、穏やかな調子であるが、私としては息がつまるようでもあった。
    私の周囲のトライアスロン仲間も、まだこの本を読んでいなければ、ぜひ一読をお勧めする。多くの人は多分、走ることへの真摯な取組みに多くのことを感じるだろう。トレーニングや走る状況を描くある部分には共感をし、励まされ、より意欲を高めていくことと思う。私もそうした気分になった。
    と同時に、なぜこれまで村上春樹を読んでこなかったか、一人納得するところがあった。「ああ、このまじめさ、誠実さ、やさしさが苦手なのだ。息苦しいのだ」。読んでいて落ち着かず、ペタペタぺタとまじめのつっぱりをうけ、無抵抗のままに土俵際まで後退していってしまうのだ。だって何の反論、異論もないのだから。
    私はたいした読書家ではないが、馴染んでいる作家は、山田風太郎、谷崎潤一郎、現代作家では色川武大と桐野夏生、エッセーは山本夏彦といった具合。私はいたって平凡な常識人だが、これらの作家の「毒」が好きで、それが心地よい。スーッと溜飲をさげるところ、ニャッと笑うところといったカタルシスがお好みだ。
    一方『走ることについて語るときに僕の語ること』はとても丁寧な文章で、思わず襟を正してしまうのだが、そうした陶酔は得られなかった。
    多分、人間の性向として違っているのだろう。ただし大きく違っているのではなく、おそらく(そんなことはあり得ないが)お酒を呑んだら楽しく話せると思うが、基本的に違う村人であろう。
    何も作家論を語るわけではないので、この話はここまで。ただし、これから書くものはそうした心境のうえでのことであることを伝えておきたかったということだ。村上春樹フアンの方々には実にデリカシーを欠いた内容となるのではないかと恐れているが、何がデリカシーを欠いているのかがよく承知できていないので仕方ない。
    『僕自身について語るなら、僕は小説を書くことについての多くを、道路を毎朝走ることから学んできた』(122ページ)。
    この本で繰り返し語られ、全体の基調となっているのが走ることの意味であり、走り続けるためになされるさまざまな努力(日々の過ごし方)の意味である。走ることは小説家村上春樹にとってどのような意味があるのか。村上春樹フアンにとっては創作の魅力に触れる貴重な一冊となろうが、こちらはそこまでの思い入れはない。
    でも、意味を問い続け、レースに向けて丹念な準備を重ねるその姿勢には、アスリートとしての触発を受けた。「やっぱりがんばっているんだよなあ」という感想である。
    村上春樹のトレーニングと比べれば、なんと私のトレーニングのちゃらんぽらんなことよ。これでは村上春樹もただの同年齢のアスリートおじさんとなってしまうが、「私もしっかりやらないと」「少なくとも週に5日は走らないと」など、実にベタな刺激を受けた。励まされた。そこに文学的、人生的な意味を見出すより先に、恥ずかしながら、これが第一の感想なのだ。
    木枯らしの 音が問うかな なぜ走る
    寒空に 家を出れない 走れない
    村上春樹は「走りにでかけない理由は山ほどある」といっている。
    はい、そのとおりです。

  • 横浜シーサイドトライアスロンで2年目の終了! そして村上春樹を読む!

    10月23日に開催された八景島での大会は、ATA南行徳の打ち上げ大会となり、スクールからも多くの参加を得て、大会後は中華街での打ち上げとなった。
    結果は以下のとおり。
    トータル 2:08:40(619位) 昨年1:52:13
    スイム  0:29:20(631位)    0:24:37
    バイク  1:04:46(613位)    0:48:16
    ラン   0:34:34(614位)    0:39:20
    今年の大会のコースは会場はまったく同じであったが、スイム、バイク、ランともまったく同じではなく、簡単に比較はできないものの、スイムとバイクは大きくタイムを落としているなあ。タイムの話から入ったが、問題は昨年はスイムで休まずに泳げたのに、今年は大いに休んでしまったのが不本意。
    少し泳いでは苦しくなり、立ち泳ぎで息をととのえ、また泳ぎだすのだが、立ち泳ぎをしても呼吸がなかなか落ち着かず、過呼吸気味となり、難渋した。ブレスのコツも覚えたものの相変わらずで、課題を持ち越すことになった。おそらく100メートルに1回程度の休みをとっているのではないか。
    今回の大会では、大会説明とスイム開始の間にあまり時間の余裕がなく、ウォーミングアップのランができなかったうえ、試泳の時間もなかったのがこうした事態の原因のひとつとは思うが、それでもなあ。毎回毎回同じことを書くのも我ながら辟易するが、いかんともしがたい。これもすでに何回も書いているが、いずれはスムーズに泳げるようになることを信じてそこにいたるプロセスを楽しんでいきたいと思う。
    バイクとランについては、ともかく疲れた!というのが実感。天候は曇り空で気温も高くなく、いい条件であったが、なんか力が入らなかった。スイムでの落胆が尾を引いてしまったのかもしれないなあ。なお、バイクのタイムについては、今年はトランジットの距離が異様に長く、自転車をおしながたカタカタと、1キロぐらいは走ったのではないか。その点も勘案してもいいのかも知れない。
    昨年はATA南行徳からは4名の参加であったが、今年の打ち上げ会の参加者はなんとATA南行徳16名プラス3名の19名におよび、それはそれで楽しいものの、こう多くなると成績の良し悪しが気分に影響するので、そのあたりが難しい。気落ちする幅が大きくなる。人と比較すれば「できなかったこと」はいっそう際立つが、でも、できないこと、年齢とともにできなくなっていくことを確かめるのも、私にとっての大切な自己確認であり、自らと向き合うこのスポーツの魅力であることを改めてかみしめる。
    しかしまあ、今年も大きな怪我をせず、体重オーバーにかかわらず、伊是名では完走を逃したものの、無事すんだことを素直に喜びたい。
    このように、すっきりとはいかない、かなりモヤモヤとした気分のなかで、村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』を手に取った。この本のことは前から知っていたが、読んではおらず、本屋で目にして引き付けられるように手にとった。必要な時は本が人を呼び寄せる!
    一読して、多くのことを思った。アスリート村上春樹への感想、その作家が書く走ることへの感想、同じアスリートとしての文章の細部への反応など、さまざまな思いが頭をめぐり、トライアスロンについて書かれた最終章では思わず胸が高鳴った。最も単純な反応としては、村上春樹も過呼吸で失敗した経験をもっていることが面白かった。
    シーズンも終わった。これから数回は『走ることについて語るときに僕の語ること』からの触発をベースに思考をしたいと思う。
    秋来たり 肌寒き風 身にまとう
    踊るよう 秋空の下 かけ抜ける
    思索の秋がやってきた。
    ちょっと考えを整理してみたい。

  • ブレスのコツがわかった? こんなにラクに泳いでいるんだ!

    昨日のスイムのトレーニングで、平野コーチから「ブレスのタイミングをもっと早くして」との注意を受けた。私の場合、顔をあげて一瞬あってから「パッ」と息を吐いていたのだが、そうではなく、顔をあげた瞬間に息を吐いている状態にするという。
    それを具体的にやってみると、水のなかで息を吐き続け、吐き続けながら顔をあげて最終的に大きく息を吐ききる感じとなる。そしてそして、やってみると、随分と息がラクになる。なんだ、こんなにラクなんだ、みんなこんなにラクに泳いでいたんだ、そうなのか、といった気分となる。これは大いに参考になったな。
    思い起こせば、ブレスを最初に習ったのは、もう25年ほど前になる。スポーツジムに通っており、30分の水泳コーチレッスンを受けた。そのときに習ったのが、「顔をあげて、口の周りの水を吹き飛ばす感覚でパッと息を吐く」というもので、いまにいたるまで、そのように行ってきた。パッと吐くには、実はその直前に息を止めることになる。
    ブレスについては、平野コーチより特訓を受け、基本の基本ぐらいは身につけたが、どこか違和感をもっていた。人より明らかに息が切れる。みんなもっとラクそうだ。多分年齢のせいではあろうが、そればかりでもなさそうと思ってはいたが、問題意識も中途半端であった。やはりつきつめていかないとわからないんだなあ。
    そのブレークスルーの一歩となったのが、最近お世話になっているパーソナルトレーナーの石橋コーチの指摘。
    ・顔をあげるのが遅いので、右手の着水と同時に左に顔をあげる。
    ・吐く息は顔をついたらすぐに鼻から息を吐き始める。
    というものであって。これでだいぶ泳ぎがラクになった。
    これはいわばブレスのスタートだね。
    そして、昨日の平野コーチの指導で、顔をあげて息を吐ききるコツに出会うことで、ようやく一巡することになった。
    これで、普通の感覚に近い状態で、息を吸って吐く循環がスムーズにできるようになった。
    以前はこんな感じ。
    息を止めた状態で顔をつける→プルにあわせて鼻から息を吐く→顔を上げる際に一瞬息を止める→顔を上げて息をパッと吐く→大きく息を吸い込み、一瞬息を止める
    つまり一巡する間に、一瞬ではあるが、2回息を止める。吐くときは力が入る。これは苦しいよなあ。
    昨夜は、息を止める瞬間はほとんどなく、あるいは自覚して止めることはなく、吐いているか吸っているかのどちらかとなった。顔を水につけながら自然と鼻から息を吐き出して、顔を上げる前には鼻と口から息を吐き出しながら顔をあげる。大切なのは、力を入れて吐き出すのではなく、普通の感覚でユックリと吐き出す。感覚としてはユックリと水車をまわすような連続運動で、これが自然の呼吸の感覚なのだから、そのほうがラクであることは違いない。
    ランもそうだけど、運動はリズムであり、リズムの基調となるのは呼吸と思う。運動の快感も、多くは呼吸の快感でではないかと思っている。
    ようやく、念願の、スイムのリズムをつかむことができるようになる手ごたえが近づいてきたかもしれない。なんて、本当かなあ。自分に期待しています。
    ひとつずつ ひとつずつ 水泳上達
    泳ぐなか 息を確かめ 命触れ
    水泳は苦手種目だが、おもしろいと思うのは、こうしたことがあるからだ。