カテゴリー: トライアスロン

  • ラグビーワールドカップの記憶。その5 「楽しむ」ことが価値となって世界を変えていく

    ラグビーワールドカップの記憶。その5 「楽しむ」ことが価値となって世界を変えていく

    振り返ればラグビーワールドカップは「国際スポーツ大会」を越えた「祭り」であったと思う。
    試合は勝つことが価値となる。しかし「祭り」は勝つこと以外も価値となる。
    試合のなかで観客は受動的存在である。しかし「祭り」では観客も積極的な参加者となる。
    試合はアスリートファーストとなる。それはいい。しかし「祭り」は皆で楽しむものでアスリートもその一員である。私はアスリートファーストを当然のこととして語ることに違和感を覚えている者である。アスリートはどう思っているのだろうか。
    試合後に選手が家族を腕に抱いて観客に挨拶する。これはラグビーでは見慣れた光景である。
    今回の大会でも、トンプソンルークが、アイルランド、ウエールズの選手が、子供を腕に抱いて場内を巡った。
    子供の前であれだけ激しく闘ったあとで、観客と同じ家庭人に戻るのだ。
    ラグビーには国際大会とはいえ、日常生活の「のどかさ」がある。
    イングランド、スコットランド、ウエールズ、アイルランドというチーム編成はサッカーも同じだが、ラグビーではアイルランドは国境を越えて南北一体である。フィジー、サモア、トンガという南太平洋の小国が自国の誇りをかけて独自の個性を爆発させる。その頂点にあるのはニュージーランドであり、南アフリカだ。ともに国際政治経済の舞台での主役ではない。ここは強国が対峙して国の威力を見せつける場ではない。
    そしてチームの編成は多国籍である。しかし国への愛着こそがチームの誇りとなっている。私たちはこうした「ONE TEAM」の姿に「ダイバシティー」とはどのようなことなのかを見る。
    私はラグビーチームは基本的には「ラグビー好きな仲間たち」を価値にして成り立っているように思える。そのチームのバックボーンにあるのが、仲間が集まってラグビーを楽しむことできる土地への愛着と尊敬ではないか。なんといっても、日々その土地に転がり、土をなめるのだ。私は勝手にラグビー選手に農夫の姿をみている。
    ここでラグビーを楽しむ仲間が集まって遊んでいるうちにチームができてそれが自然と大会となる。「ここ」はチームを育てる地域社会という土壌であり、「ここ」と「ラグビー」は不可分なのだ。
    ラグビーにはそんな子供時代の記憶を思い起こさせる「素朴」なテイストがある。
    こうしたラグビーの特性が、このワールドカップを「祭り」としているように思う。
    しかしラグビー以外のスポーツにも「祭り」の芽はあり、水をやれば花開くはずだ。

    ささやかながら、ここで私のトライアスロン体験を挟みます。
    沖縄の伊是名島で開催されるトライアスロン大会がある。高校は本島に行くためボランティアは小学生に中学生である。スイムでサンゴ礁を泳ぐ、バイクでは島をめぐる。ランでは島の山道を走る。沿道では、子供からおじいちゃん、おばあちゃんまで、総出でで声援をおくってくれる。大会の夜は体育館で参加選手も大会関係者も泡盛を飲んで踊りまくる。なんと子供も一緒に踊るのだ。そう。盆踊り状態。さらに宿泊先である民家に戻り、家の方々と島唄をうたう。まさに年に一度の島をあげての祭りである。
    この大会に参加した者の意識としては、レースに出たというよりも、村祭りに神輿を担ぎに来た感覚であった。これは実に新鮮な体験で嬉しかった。もちろん国際大会とは比較にもならないが、ここには選手と観客が同じ地平に立って祭りをつくる一体感がある。

    このブログでは、何回も「楽しむ」という言葉を使った。
    団塊の世代の名づけ親である堺屋太一は、googleが出現する以前に「これからは選択のコストを下げることが価値となる」と予測した。慧眼恐るべし。そして、「明治は強い国家を目指した。戦後は豊かさを目指した。これからは楽しさを目指すべき」と指摘した。
    スポーツは楽しさをもたらす。それはわかっている。しかし今回のラグビーワールドカップは、他の国際競技とは何かが違う楽しみもたらした。それはラグビーそのものの面白さ、日本の快進撃。いや、それだけではない。それだけではないことを考えて、このブログ連載を書いてきた。
    それはスポーツのもつ「祭り」の豊かさである。
    この大会は「祭り」としてのスポーツ大会の魅力を、「スポーツ大会を祭りに育てる」気づきを与えてくれたと思う。

    スポーツは楽しいものだ。スポーツには様々な楽しみがある。
    しかし、皆が楽しむためには、それなりの配慮、工夫、創意が必要なのだ。
    ただ選手が強くなればいいのではない。面白い試合であればいいのではない。贔屓チームの勝利が至上なのではない。「NO SIDE 良き敗者」こそが本質的な価値なのだ。
    「楽しむ」ことに向けて、様々な営為が積み重なっていく。
    それは地域社会が総出となって取り組む、とても高度な集団のマネージメントであるのだ。
    そうしたスポーツの楽しさを「祭り」という視点から考えてみよう。
    応援の楽しみはさらに広がるだろう。それが誰であれ、そのとき共に応援する人に寛容になるだろう。
    一人でもいいではないか。
    68歳独身の私はラグビーワールドカップを人生一度の「私の祭り」として堪能した。
    オリンピック・パラリンピックも祭りである。世界最大の祭りである。
    2020年には、大会会場ばかりでなく、日本全国で、さらには広く世界で、無数の多彩な祭りが生まれることを私は期待する。
    私自身もどのような「私の祭り」とするか、そろそろプランを立てなくてはならないのだ。

    私は2020東京オリンピック・パラリンピックは、人類にとって大きな価値を持つものになると考えている。
    話が大きすぎるだろうか。委細の説明は別の機会とするが、私は真面目にそう考えている。
    この時代に、この世界の状況で、世界で最も精緻な都市東京で、誰もがスマートフォンを持って自動通訳と地図案内と観戦案内・観光案内を使いこなし、SNSでつながり、AI技術開花の入り口という時に開かれる、世界が集うオリンピック・パラリンピックという「世界の祭り」。この意味するところを考えてみよう。
    そして2023年にはヨーロッパ・揺れるECの中枢フランスでラグビーワールドカップが、2024年には近代都市の代表である華の都パリでオリンピック・パラリンピックが開催される。さすがにフランスもスポーツのもつ豊かな可能性に気づいていると考えたい。日本・東京からフランス・パリへ。この共同的チャレンジは「共に楽しむことを価値とする」寛容の時代への人類史的な転換となるだろう。
    私はそのように考え、その現代史に参加できる幸運を喜び、「楽しみ」にしている。
    最後に私の感想。
    一番興奮した試合は、もちろん日本・スコットランド。説明不要。
    ラグビーの魅力を堪能したのは3位決定戦ニュージーランド・ウエールズ。両チームに惚れ直した。
    選手のプレーを楽しんだのはフィジー・ジョージア。フライングフィジアンの魔法に浸った。
    ジャパンで最も印象に残った選手はなんてったって福岡。ナマ福岡のスピードは奇跡なのだ。
    そしてラファエレティモシー。いくつもの起点になっていた。
    立川に代わるセンターは誰なんだと思っていたが、中村とともに、見事にその任を果たした。
    こう書いてみると、バックスの野生そのものの躍動が好きなんだなあ。

    写真は決勝戦のパブリックビューイング観戦後に訪れた有楽町のファンゾーンでのスナップ。
    今回の「私の祭り」はこれでお仕舞い。ありがとう。
    次は2020年。もう来年だ!!

  • 私の老年学の第3回。心の収縮と自己鍛錬について考えてみました。

    私の老年学の第3回。心の収縮と自己鍛錬について考えてみました。

    前回から、だいぶ時間が経ってしまった。

    8月5日から9日までハノイ、8月19日20日が北京。海外出張は体にこたえる。時差はハノイが2時間、北京が1時間と大きな差ではなのだが、それでも身体のリズムがおかしくなり、疲れやすく集中力が衰える。ブログとも遠ざかる。
    ようやく回復し、改めてこれまでを振り返りつつ、考えを進めてみる。
    老化とは「収縮」である。
    まずこれがスタート。これは実感である。
    よって「収縮」を感じつつ、その状態をできるだけ居心地よく暮らしていく「工夫」が必要になる。若いうちは何も考えずに生きていくのだが、歳をとると漫然と日々を過ごしていくことができなくなる。何らかの「工夫」を自覚することが必要なのだ。
    そしてヴァレリーに触発されて「自己鍛錬」こそが「工夫」の要点ではないかと考えた。また、この「自己鍛錬」は何らかの「目標」を含むことにより「緊張という快楽」をもたらしてくれる。
    私の場合は、「身体の自己鍛錬」はトライアスロンだ。
    高齢者のスポーツというと、もっぱら「健康管理」の側面から語られている。
    しかしスポーツとは高度な精神活動であり、特に高齢者にとってのスポーツの楽しみとは、その精神活動の魅力にある。
    トライアスロンの大会を目標にして、仕事との調整、トレーニング、体調管理、食事、バイクのメンテナンス、大会の申込、前日の準備など、自らのあらゆる活動を総動員する。「収縮」していく運動機能を把握しながら「自己鍛錬」に励む。そんな「老人のスポーツライフ」もあると思う。
    では「心の収縮」に応じた「自己鍛錬の楽しみ」は何か。
    前回のブログ以降、そのことを自問自答してきたが、なかなか簡単には答えがでない。
    まず「読書」が頭に浮かんだが、それだけではどうもスッキリと納得ができない。そもそもなかなか読書ができなくなっていることが「収縮」の自覚症状なのだ。でも、やはり「読書」による「心の自己鍛錬」を考えてみたい。
    だだ漫然と読書をするのではなく、何らかの意図と目標をもって読書する。溌剌とした気分で読書をする。
    高齢者にとってのそんな読書の楽しみを考えてみたい。
    数年前から、生きているうちに「古典の名作」を読んでおきたいと思うようになった。
    そこで「赤と黒」「ボバリー婦人」「ゴリオ爺さん」「アンナカレーニナ」と読んできたのだが、いずれも途中まで読んでは止まってしまう。これが「収縮」の症状である。
    「途中まで読んで止まってしまう」のは「つまらない」からではない。むしろ作品に漲る緊張感に息がつまり、ちょっと距離を置いて一息つく気分で本を閉じてそのまま放棄という結果となった。本に没入していく心の力の衰え、収縮である。
    こんなことを調べてみた。
    「戦争と平和」はトルストイが34歳の時に執筆を始めたという。
    「魔の山」が出版されたとき、トーマス・マンは49歳であった。
    「八月の光」が出版されたとき、フォークナーはは35歳であった。
    「人間喜劇」を書いたのはバルザックが36歳のとき。
    なんだ、みんな若造ではないか。この若さで歴史に残る作品を書いたのか、あるいは若かったから書けたのか。我が身を顧みれば「馬齢を重ねる」という言葉が身に染みる。しかし、馬齢とはいえ、様々な経験も重ねている。そこで、年寄りが若き小説家と語るように読んでいくのはどうだろう。「ほう、そんなことを考えているのか、きみもまだ若いなあ」なんて気分で作者と語り合う。
    まずは、ただいま読みかけのトルストイと語り合ってみようか。
    「よう、ご無沙汰」の気分だな。
    あけ放ち 夜風よびこみ ストレッチ

    命あるうちに、歴史に名を刻む偉大な精神と先輩気分で語り合う。これも高齢者ならではの楽しみであろう。死んだ人を新たな友として語り合う。これを快楽としたい。
    9月22日の九十九里トライアスロンまで1か月を切った。夏になってだいぶサボったので、気合を入れないといけない。暑さのため敬遠してきたランとバイクが不安だ。手帳を見ながら、「この日はラン、この日はバイク」と書き入れてみる。収縮する日常生活に「スケジュール管理」という自己鍛錬に向かうのだ。
    写真は北京空港。今回は一人旅でちょっと緊張。

  • いよいよシーズンイン。最近はちょっとスピードというものに目覚めてきた。

    いよいよシーズンイン。最近はちょっとスピードというものに目覚めてきた。

    横浜トライアスロンのスプリントはスイムで足切りになってしまった。25分が制限時間のところろ、29分ほどかかってしまった。原因は息切れ。300メートルほど泳いだところで息が切れて一休み。そのあとは、100メートルほど泳ぐたびに息切れとなり、落ち着いて泳ぐことができなかった。いったん脈拍があがるといけないなあ。とても残念。
    さらに、失意の横浜大会のあと、バイク練習で落車してしまった。ちょっとしたカーブのある場所で、タイヤが横滑りしてバランスを失い、倒れながら金網のフェンスにぶつかった。倒れたときは、息もできないという状態で、文字通り「天を仰ぐ」。チームでの練習ライドだったので、仲間が驚いでかけつけてくれた。ありがたかった。
    幸いに右膝から出血したものの、大きなダメージはなく、2週間たったいま、絆創膏もはずしている。というわけで、今シーズンは実に冴えない感じでシーズンインとなった。

    実は今シーズンはちょっとした心境の変化があり、それなりに「やる気」であっただけに、本当に残念なのだ。
    それは「スピードへの挑戦」である。私のようなロートル・ヘッポコがこんなことを書くと、ほぼ冗談かとなるところだが、他に言いようもない。「スピードへの挑戦」なのだ。
    スイム、バイク、ラン。どの大会、あるいは練習に行っても、いつも最後尾である。それは不本意であるが、だからといって前向きにスピード練習に取組んできたわけではなかった。大切なのは「安定した呼吸」で、調子よくスピードをあげるにしてもその範囲内。タイムは目標ではなく「結果」であった。生涯スポーツとして自分で楽しむことが基本で「競う」という考えはまったくなかった。「どうぞどうぞお先に」という姿勢である。

    それがスピードに目覚めた。きっかけはランだ。どうも走るのが遅くなり、以前はキロ7分の感覚で走ると、実際はキロ8分になってきた。そこで長い距離はできないが、20メートルほどスピードを上げて走っては、歩いて息を整えてまた走るという練習を繰り返した。その時はキロ5分、あるいはキロ4分半ほどのスピードとなる。すると普通の走りも速くなり、6分30ぐらいで巡行走行、タイムトライアルでキロ5分45秒ぐらになってきた。感覚としてはもうちょいあげられるようである。それが面白くなった。
    味をしめて、スピニングバイクにも挑戦。以前は80回転/分ぐらいで回していたのだが、100を基準にして、120で30秒回して1分半は一休みで、また120を30秒といったことをすると、黙っていても100近くで回すようになった。
    なるほど、刺激を入れればスピードはあがるのだ。ただしバイクは15分、もランも15分程度の短時間ですませる。スイムはまず500をユックリ泳いであとは25メートルのダッシュを繰り返し、30分程度で終了。その代わり、週に3回、できれば4回はジムに行くようにする。
    横浜もそんな感じで臨んだのだが、それが原因なのかどうか、スイムで早々に息が切れてしまった。なかなかに難しい。
    次の大会は6月29日のタテトラのスプリント。さて、記録はどんな具合になるのか。楽しみのような怖いような、なかなか新鮮な気分でいる。
    五月の陽 風に誘われ 海岸に
    トライアスロンを始めて10年、この歳になって新たな局面を迎えている。
    さして上達はしていないが、最後尾とはいえ、自分なりにコントロールできるようになったのだろう。少し余裕ができたということか。そこでスピードに目覚めた。続けてやっているといろんなことがあるものだ。面白い。
    新たな楽しみとして、スピードへの挑戦に向かいたいと思っている。

  • 令和元年の連休は暮らしのリセットと横浜トライアスロンへの準備。

    令和元年の連休は暮らしのリセットと横浜トライアスロンへの準備。

    昭和26年生まれで、平成元年のときに38歳。そして平成で30年の時を経て、68歳の高齢者として令和の時代を迎えることになった。

    日常生活では元号を使うことはほとんどない。もっぱら西暦を使っている。元号は日本固有の文化として尊重しているが、特に強い思い入れがあるわけではない。「令和」についても、歴史や文学など、その方面のいろんな人間が考えて、大方の納得のいく仕組みのなかで決められたものであろうし、そのまま素直に受け入れている。これが私の考え方。
    「令和」が気に入らないという長文の書きこみをFBなどで見かける。意味が気に入らない、安倍が決定に介入したなど。その方面でご飯を食べている学者やコメンテータはそれが仕事と思うのだが、誰に頼まれたわけでなく、その「気に入らない」心情を世間に向けて、しかも長い時間をかけて所見を整理し、縷々書き込まずにはいられない情熱や衝動というのが私にはわからない。何をそんなに力んでいるのだ。私にはそんな時間が情けない。
    などど思いながら大型連休に入った。正月から息せき切って走って一息つくのが5月の連休だ。雑然とたまってしまった資料を片付け、打ち合わせもなく自分の時間に浸り、早寝早起き。
    FBではあちこちでのトライアスロン合宿の様子が伝えられる。陽気もよくなり、いよいよシーズンインを前にして気分のギアも一段あがる。今年は5月19日に横浜トライアスロンのスプリントに参加する。
    横浜トライアスロンはスイムのタイムが厳しいことで知られている。スプリントは25分。100メートル2分の人であれば、計算上は15分であるが、私のように100メートル3分となると、22分30秒となってギリギリだ。どうしてこんな厳しい設定にしているのだろう。横浜の市街地がコースでもあり、時間が厳しいことはわかるが、あと5分伸ばせないものか。5分でだいぶ違うぞ。そうすれば何十人かはハッピーでいい思い出としてレースを終え、中華街にでも繰り出して楽しい時を過ごすことができるじゃないか。

    前回の横浜のスプリントは2015年の参加。リザルトは以下。
    トータル 1:56:38
    スイム  0:26:05 750メートル
    バイク  0:55:41 20キロ
    ラン   0:34:52 5キロ
    スイムは1分5秒オーバーしているのだが、見逃してくれた。全体の制限時間は2時間だが今回はだいじょうぶか。あれから4年。実感としては衰えている。
    ということで、積年の課題であるスイムのスピードアップに、相変わらず、ああでもない、こうでもないと取り組んでいる。現在のところ、25メートルを35秒、少し油断をすると40秒、気合を入れて30秒、全力で25秒といったところで、なんとか普通に泳いで30秒切りを実現したい。あと5秒プラスのアップだけど、これが大変。ポイントは体の姿勢にあるとは思うのだが、なんとか横浜大会をクリアすべく、頑張っていきたいと思っている。
    ランはだいぶ衰えているぞ。バイクは昨年12月の奄美大島以来まったく乗っていない。横浜の前に2回は乗っておきたいなあ。連休最後の月曜の天気予報を見ると降水確率40%。オープンウォータースイムは今シーズンのぶっつけ本番となる。これも気になるなあ。
    レースに出るとなると、いろいろと準備が多い。バイクのサイクルメーターを直して、レンタカーを予約して、レース案内を熟読してなど、いま、やるべきことのリストアップを始めている。レース前の緊張感と準備を楽しもう。
    夏レースへ 準備書き出し 肌さすり
    毎日それなりにやることがある。できるだけ前向きな気分でそれらをこなして日々を送っていく。私はこれを生きていく要諦と思っているが、こうした状態にするには「意識的」でなくてはならない。何も考えずにその状態を維持することはできない。私にとって大切なのは日々の暮らしであり、元号が変わろうが、同じように日々の諸事を作り出し、穏やかに暮らしていく人生を大切に思っている。そうやってろうそくの火が細くなるように年齢を重ねる。
    そんな私には社会的な非難の感情にとらわれて費やす時間が情けない。そうなったらきりがないだろうに。写真は横浜トライアスロンのホームページから。ささやかな私の挑戦!!!

  • ベトナムレポート。「日本はすごいなあ」という私の実感。

    ベトナムレポート。「日本はすごいなあ」という私の実感。

     ベトナムはハノイに来ている。昨年は多分9回ベトナムに来た。しかし、仕事で動くばかりで、自分の時間はまったくなかった。それが今回はなんと、この週末がフリーとなった。今日は土曜日。午前中は業務レポートを書いたり、確認メールを送ったりで、仕事がらみであったが、12時ぐらいで切り上げ、フリーの時間になった。

    そこでロッテセンター近くの宿泊先から、ホーチミン博物館、ハノイの中心部まで行き、メトロポールホテルを目標とすることを大まかなプランにして出かけることとした。トレーニングのつもりですべて徒歩である。
    今回は、トライアスロンを離れて、ベトナムでの感想報告になります。
    ホーチミン博物館はちょうど昼休みの時間となり入場できず。午後のオープン時間を待つほどの熱意もなく、メトロポール目指してひたすら歩く。メトロポールホテルのバーでジンライムを飲みたいのだ。
    だんだんと中心部になり、外国からの観光客の姿が目に付くようになる。
    ベトナムはなかなか魅力的である。路面店が多く、店の前では人々が椅子とテーブルを出して、憩いの時を過ごしている。そこに日常があるので、こちらも安心して歩くことができる。
    この安心感がベトナム観光の基本的な価値だな。
    しかし水は安心できない。よって食事の店探しはかなり慎重になる。
    トイレはどうしようかなあ。日本のようなわけにいかないなあ。
    バイクの音がうるさい。いつも注意していないとひかれそうになる。
    安心ではあるが、ハノイを歩くには緊張感が必要なのだ。
    などど考えつつ外国人観光客の姿をながめていると「外国から日本に来た観光客はどんな気持ちで歩いているのだろうか」との思いが湧いてきた。
    そこから外国人への日本ガイドを勝手に妄想することになった。
    以下は、私の日本紹介の妄想である。
    日本にはアジアならではの混沌と活力があります。そして伝統と最新の現代の同居があります。このエキゾチックなアジアの魅力を、日本独自な感覚で味わうことができます。
    食事はどの店でも衛生面の心配はありません。一人の昼食からカップル、仲間とのディナーまで、レストランは豊富です。おなじみのハンバーガーショップやコーヒーショップも多いので安心してください。どこにするか、大いに迷うかと思いますが、どこも安心で清潔です。衛生はもちろんのこと、特殊なバーでなければ、法外な値段をとられることはありません。もちろん味とサービスは世界のトップレベルです。
    水道の蛇口から出る水は、場所を問わず、安心して飲むことができます。
    都会であれば、駅やお店など、清潔なトイレを15分以内で見つけることができるでしょう。
    ブランドショップの豊富さは、言うまでもありません。
    夜遅くなっても安心です。暴力の心配なく道を歩けます。タクシーの呼び出しもあります。タクシーは清潔で値段はメータどおり。チップの必要はありません。大都会と地方とはもちろん違いますが、衛生、安心、安全、便利は日本のほぼどこの町でも手に入れることができます。
    財布を落としても届くという話がありますが、これは事実です。100%とは言いませんが、財布お落としても戻ってくる可能性は5割を超えるでしょう。
    「これはすごいことなのだ」とハノイの下町を歩きながら考える。
    今日はgoogle mapを見て歩いた。googleは外国旅行のありかたを根本的に変える。
    マップを見ながら、ほぼ不自由なく4時間を歩き、目的を達することができた。
    では、日本をgoogleで旅行したらどうなるのであろう。googleのマップ、自動翻訳、各種ガイドを使えばおそらく、東京の地下鉄でも乗りこなせるのではないか。
    そう思うと、日本はますます魅力的なのである。
    もし、アジアに旅行したいと思っているが、どの国に行くべきかを迷っているのであれば、ぜひ日本を勧めたい。ハノイ観光を楽しんでいるあなたも、ぜひ日本に来てください。
    もし日本に来ることでかかる費用が、他の候補地の倍はかかるとしたら。
    「それでも日本です。日本にはそれだけの価値があります」
    そう実感する。
    極東の島国で、約3万年の月日を重ね、独自な文化を築きあげてきたこの国を楽しんでほしい。
    ベトナムで 熱帯の風に 里ごころ
    「日本衰退」の言説が巷にあふれている。
    果たしてそうなのか。私は違和感を覚えている。
    私はこれからの日本の成長を実感している。
    「日本とは違って成長著しく活気あふれる」中国、ベトナムへ出向き、仕事をしている現場実感から、そう思っている。来るたびにその思いは深まっている。
    写真はハノイ旧市街の中心地。
    とても魅力的ですが、ここを歩きながら「日本はいいぞ」を実感しました。

  • 桜を眺めて「トライアスロンで自然と戯れる」楽しさを思う。

    桜を眺めて「トライアスロンで自然と戯れる」楽しさを思う。

     この週末、桜は満開だというのに、ひどく寒い。寒いなか、土曜のラントレでは30分のジョグ+180メートル坂道での「流し」を3本。久しぶりのランであったが、気持ちよく走れた

    何が気持ちよかったのかといえば、もちろん身体を動かす快感が基本なのだが、走った公園の緑が気持ちよかった。青葉茂れる5月はまだ先で、今日は曇り空であったが、目に映る緑が心地よかった。
    生まれ育ったのは横浜の下町で、働くようになってからはずっと東京。アウトドアのレジャーにも興味なく、自然との縁は遠いままに生きてきた。それがここにきて、しきりと自然の魅力を感じるようになっている。
    自然といってもいろいろあるが、まずは緑。木々、芝生の緑を見ると、ただただ「いいなあ」と感じる。その心持を言葉にすると、確かに「癒される」ということなのだが、見ているときはそんな言葉も思い浮かばず、緑の向こうに空を眺め、息を吸い込んで、心晴れやかとなる。自然と笑顔がこぼれるような感情となる。そして笑顔のままに走り出す。
    まあ、自然に目覚めたわけだ。あるいは自然を味わう快感に目覚めたわけだ。
    そこで、週末の土曜日はトライアスロンのトレーニングなので、日曜は緑を見に近くの公園にでかけてみたいと思っている。そんな衝動を心に温めていると、何らかのきっかけて、いつかは行動を起こすようになるものだ。多分今年の夏までには、電車に30分ほど乗って、緑豊かな公園に行くようになっていると予感している。
    自然の魅力とは目に映る色であったり、肌を差す光であったり、頬をなでる風であったり、私の生理に直接働きかける刺激であるのだが、そのうえに「常に移りゆく」ことをその魅力に加えておきたい。それはただベンチに座っているだけでも味わうことができるし、今日のようにこちらが動けば、また味わいは自在に変わっていく。
    「トライアスロンは自然を楽しむスポーツ」とはよく言われるところであるが、ただ泳ぎ、バイクに乗り、走ることで「自然を楽しむ」というのは、ちょっと言葉が足りないように思う。まず、3種目を通して「自然に挑戦していく」気分となる。積極的に自然とかかわることで、自然への意識や関心が自然と高まり、自然に自然を身近に感じるようになり、そして、このように、自然の魅力に目覚めるようになる。
    日々の暮らしというのは、不愉快なことも多い。仕事となればストレスは避けられない。私は仕事好きな人間と思うが、それでもそう思う。
    しかし、自然の魅力に包まれているときに「不愉快」はない。トライアスロンをしているときは、さらにその状態に一所懸命となり、「不愉快」など考えている暇もない。
    そこでいきなりだが、生きている実感、生きる楽しみというのは、そうした時を感じることなのだと思う。いまの世の中、何かを成し遂げたり、人のためになったりするための情報があふれているが、そんなことはどうなるのかもわからないことで、それよりも煩雑な日々のなかて「自然の移ろい」を感じる時をもつことが大切と思う。それは誰もができることであり、人間が人間であることをかみしめる、じつに豊かな時なのだと思う。
    トライアスロンは自然と戯れるものなのだろう。
    黄昏に うつりゆく空 桜道
    「トライアスロンで自然と戯れる」ことを大切にし、そうした時間を計画的に作り出すことによって、心の安寧を保っていきたい。
    今日は新年号「令和」の発表があった。報道がおおむね好意的に伝えているようで気持ちよい。。
    写真は昨日の夕方に歩いた深川の桜道。人も少なくいい黄昏の時を過ごした。

  • トライアスロンと共にある暮らしに、ちょっと飽きてきたのかもしれない。

    トライアスロンと共にある暮らしに、ちょっと飽きてきたのかもしれない。

     桜の開花となっているのに、今日は冬に逆戻りの寒空。

     昨夜、のどが痛み出した。
    今週は比較的よく寝ているのに、疲労感が抜けなかった。
    この冬は風邪をひかずにここまできたが、ついにひいたか!
    ともかく早く寝ようということで、シッカリと歯磨きにイソジンでうがいをして、11時前には就寝。今朝は6に目覚ましなしの起床。
    のどの痛みはなくなっている。よかったあ。でも体調は、疲労感とまではいかないが、スッキリでもない。
    さあ、トレーニングに出かけるかどうするか、大いに悩んだ。
    悩んだが、体調が悪化したら明日の日曜に休めばいいと思い切って出かけた。
    今日はスイムとインドアでのトレーニング(スピニングバイク、トレッドミル)。
    結果としては体調、気分とも、どこか吹っ切れた気分でいる。
    元気でこのように久々のブログに向かっている。

     体調が悪いときは無理せずに練習は休み、というのが正解なのだとは思うが、改めて考えてみると、本当に悪ければどうしようかとも思わないだろう。迷っているぐらいなら練習に出ればいいではないか。それが試合ならなおさらだ。
    行くと決めたら「大丈夫か」などとは思わず、戦闘精神いっぱいに気分を高めていく。そしてもし悪くなれば、そこでやめることになるのだろう。もし練習を続けられるのであれば、そんなに悪くはなかったということなのだ。
    果たして練習に行かずに休んだほうが回復が早いのか。
    それだってわからない。
    今日のように練習で吹っ切るなんてことだってあるんだ。
    ひょっとして「飽きてきた」のかもしれないとも思う。トライアスロンに飽きてきたというより、練習に飽きてきた。練習する日常に飽き、体を鍛えることに飽きる。飽きてくると緊張感を失い、面倒な気分が募っていく。「まあ、やめようか」のセリフが出てくる。
    さらに考えると「なかなか上達しない」ことに飽きてくる。それはあるなあ。トライアスロンを始めて10年となり、技術的には上達したとは思うのだが、速くはならない。タイムは落ちていく。なかなかモチベーションが持ちにくくなっている。
    寒空に 明日の花見は さてどこへ
    多分、体を動かすことそのものを楽しみとする感覚なのではないか。気持ちの良い体調で、神経にスイッチを入れ、汗をかくのはいい気分だ。水を切り、風を受け、地面をはねて全身で自然の刺激を感じるのは快感だ。この快感は能力にかかわらず、年に応じて、もつことはできるのだ。この感覚を求めることを自覚して「飽き」を吹っ切る。
    よし、いってみよう。
    写真は我が家のベランダから見る今日の寒空。
    話は変わるが昔ドイツのエッセンという町に展示会の視察にでかけ、ドイツの寒空と霙に出会った。石畳の広場と陰鬱な建物、店の明かりが暗い寒空によくマッチしていた。これがドイツなのかと思った。それと比べると、日本の寒空は明るいようである。暮らしも人もその地の気候から作られる。

  • 68歳の誕生日から1週間。「静かに丁寧に続けていく暮らし」がテーマ。

    68歳の誕生日から1週間。「静かに丁寧に続けていく暮らし」がテーマ。

     2月16日(土)

    68歳の誕生日。土曜日であったので、午前中はいつものようにトライアスロンのトレーニング。夕方の6時には堺屋太一先生のお通夜で青山斎場へ。堺屋先生は私が属するイベント学会の会長であり、一読者としても、学会会員としても大きな影響を受けてきた。お通夜のあとはイベント学会の仲間と赤坂で献杯。
    2月17日(日)
    今年初のレース参加。レースといっても10キロランの草レース。荒川沿いを走る。風が冷たく寒かったあ。特に後半の向かい風は厳しくて実につらかった。そんな天候のせいもあろうが「衰え」を強く実感。タイムは1時間15分程度ということは、キロ7分30秒程度のペース。まあ、はじめからノンビリいこうと思ってはいたが、それでも1時間10分以内にまとめたかった。身体は重く、足が伸びない。
    そこで思うのはやはり「身体づくり」なのだが、具体的にどうするか。
    8月の木更津大会で落車して右肩の骨にヒビが入ったが、そこがいまだ痛む。スイムはできるで放置してきたのだが、整形外科のリハビリテーションに行ってみようかと思っている。加えて、左の膝が痛んでいるので、そこも見てもらう。さらにリハビリテーションを通して、身体の管理ができないものかと思っている。
    2月18日(月)~2月22日(金)
    今週はベトナム関係、中国関係の仕事の整理がメインとなった。ベトナムも中国も陰暦の正月であり、この時期は「いよいよ新年」というモード。整理をすると、医療介護の大きな課題として「人材育成」が見えてくる。ベトナムも中国も日本の「人材育成」に大きな期待をかけているというと意外と思われるだろうか。でもそうなのだ。日本式の医療介護はベトナム、中国、そしてロシアでもブランドなのだ。
    ようやく「基本呑まない」生活が身についてきて、夜は家で食事後、テレビを見ながらストレッチと自重トレーニングを行うようになっている。いいぞ。
    22日(金)の夜にジムに行き、10分のスピニングバイク、10分のトレッドミル、10分のストレッチ、40分のスイム。スイムはまず500メートルから、25メートルのフォーミングを繰り返す。
    2月23日(土)
    誕生日から1週間後の土曜日。朝の9時半から「ヘルシィエイジング学会学術集会」に参加。夕方まで参加してから、恵比寿にフェルメール全作品の複製(リメイク)展に出かける。複製であるにしろ、その精度は高く、実寸大で一生の作品を時系列で通観できる。この魅力は大きい。いくつかの作品はまさに衝撃ともいえる光彩を放っていたが、それとは別に、フェルメールという人間(天才)の生涯に接して「静かに丁寧に続けていく暮らしの豊かさ」を感じた。
    2月24日(日)
    今日はバイクの100キロ自主練に誘われて、行ってみたいと思っていたが断念して、まず、こうしてブログに向かっている。3月の4日からベトナム出張の予定で、確定申告の準備もあり、考えてみるとこの休日にしておくべきことが多っかった。今日このあとはDROPBOXのアカウント確認、確定申告準備、シムでスイムから仕事に出かけ、帰宅後にこの1週間の準備となる。いろいろあるなあ。
    日一日と 日差し移ろい 空を見る
    68となると70歳が間近に感じる。これは発見であった。へえそうなんだ。いつまでトライアスロンができるだろうか。トライアスロンも含めて「静かに丁寧に続けていく暮らし」を作っていきたい。あくせくせず、遠くの空を眺め、ユックリと道の真ん中を歩いていきたいと自戒する。
    写真はフェルメールの代表作で、通観してもこれがハイライトであった。代表的な構図を離れ、このように個人を描いた作品はこれだけであり、それも驚きであった。他の作品には静逸な瞬間が切り取られていたが、この作品には永遠ともいえる祈りの愉悦があった。思わず手を合わせたくなった。いいものを見た。

  • 近事報告。ささやかながら私の「心身ケアプログラム」

    近事報告。ささやかながら私の「心身ケアプログラム」

    毎年年長引く風邪に悩まされているのだが、今年はこれまで風邪をひいていない。インフルエンザにもかかっていない。なお。インフルエンザの予防注射はすませている。
    今年は何が違うのか、つらつら考えてみるに「歯磨き」がその理由ではないのかと思っている。
    もともと歯磨きには時間をかけている。歯科衛生士に教えてもらった方法で磨くと約15分ほどかかる。外出時はそうはいかないが、家では食後に必ず15分かけて歯を磨いている。それなのに昨年暮れから歯茎の具合が悪い歯がでてきて、医者に行くと歯周病ということで、さらに丁寧に磨いている。家にいるときは朝昼晩の食後プラス寝る前の4回も磨く。
    ちょうどテレビの情報番組で、歯磨き・口腔ケアの重要性を紹介していた。高齢者の介護施設でも、感染症予防のために口腔ケアを励行しているという。インフルエンザを診る医師は感染リスクも高くなるが、歯磨き、手洗い、それにマメに水分をとって口の乾燥を防ぎ、予防しているという。
    「なるほど」ということで、口腔ケアを暮らしの「心身ケアプログラム」にインプットする。
    振り返ってみると、年をとるということは、いろいろと「心身ケアのプログラム」が増えていくということだという思いにいたる。
    家から駅まで歩くと15分から20分かかる。最近は時間に追われて自転車利用が当たり前になっていたのだが、「早歩き」にしている。はじめてみるとこんなことでも「上達」というものがあって、だんだんと速度が速まり、軽く汗ばむほとになり、気分としてはトレーニングとなる。
    これは積年の課題であったのだが「基本酒を呑む毎日」を約50年近くも続けてきたのだが、ようやく「基本酒を呑まない毎日」が身に付き始めている。酒を呑む代わりにストレッチと筋トレ、読書ににあてている。酒を呑まない暮らしの快適さを実感しはじめている。やってみればできるもんだ。

    「人間は習慣の奴隷である」という言葉があるが、年よりとして元気快適に生きていくにはそれなりの習慣をつくっていかなくてはならない。「心身のケアプログラム」を増やすということはそういうことなのだろう。
    私にとってトライアスロンは「生涯スポーツ」と公言しているのだが、「生涯スポーツ」というのも、言い換えれば、老化に応じた「心身ケアプログラム」に他ならない。「生涯スポーツ」とは老人のための生活習慣なのだ。
    寒風に 陽ざししうれしや ランニング
    スイム 100メートル2分30秒
    ラン  タイムトライアル1キロ5分45秒
    昨日の練習の記録だ。
    それが練習であれ、レースであれ、タイムをしっかりと記録保存する習慣がない。面倒なのもあるけど、目標管理というのが私にはなじまない。でも、この昨日のこのタイムを評価するには、やはり保存記録がいるんだなあ。さらに、これからはタイムを記録して目標にしてみようかという気分になっている。宗旨がえだな。
    スイムはまず100メートルで15秒削る。そのためには25メートルで約4秒かあ。でも25メートルだけなら33秒で泳ぐことはできる。そのスピードで100メートルかあ。などど考えてみる。
    要はそれが楽しいことなのかどうかということであり、奴隷となる習慣は楽しいものでなくてはならない。「習慣の奴隷」とは平凡な暮らしの中にささやかな「快適」をプログラムするということなのだよ。
    今回は写真はなし。

  • 今年はトライアスロンを始めて10年。生涯スポーツとしてのトライアスロン。

    今年はトライアスロンを始めて10年。生涯スポーツとしてのトライアスロン。

     皆様明けましておめでとうございます。

    いつも拙ブログご愛読ありがとうございます。
    今年もよろしくお願いいたします。

    昨年の暮れにウイルス性結膜炎を患い、年末はひたすら休息につとめたが、暮れの29日・30日とようやくジムに行って身体を動かし、31日には久々の5キロランを楽しんだ。
    以前は冬の時期にはマラソン大会にも出ていたが、今年は何もなし。
    トライアスロンについては、5月の横浜大会のスプリントに申し込んで抽選待ちだが、それ以外は決めていない。漠然と7月の昭和記念公園、9月の九十九里には行こうかと考えている程度。
    昨年は仕事の環境が劇的に変わり、それに追われるばかりで、トライアスロンまではなかなか気が回らなかったというのが正直なところだったと思う。
    そんな状態で8月の木更津大会でバイク落車。右肩の骨にヒビが入り、まだ痛い。改めてリハビリの治療に向かおうとも思うのだが、さて、どこかいいクリニックはないか。この際リハビリだけではなく、身体全体のリセットに取組みたいとも思っている。
    ではリセットをしてどこに向かおうというのだろう。

    このブログのタイトルは「58歳トライアスロン始める記」だが、今年は68歳となる。私のトライアスロン歴も10年を数えることになった。
    改めて確かめるのは、私にとってトライアスロンとは「生涯スポーツ」であり「ライフスタイル」ということだ。そして生涯スポーツとしてトライアスロンを選んだことは、とてもよかったと思っている。
    昨年「人生100歳時代」という言葉を覚えた。70歳までは何もしなくとも元気でいられるが、70歳以降はそうはいかない。100歳までの30年をどのようにして生きていくのか。何年寝たままで生きることになるのか。「人生100歳時代」とはそういうことだそうである。
    なるほど。トライアスロンをライススタイルとすることは、「人生100歳時代」に適っているといえるのだろう。
    何も100歳まで長生きしたいと思っているわけではない。むしろヤレヤレというのが正直なところで、いつお迎えがきてもタクシーに乗るようにアッサリと応じてやろうと思っている。
    ただ、生きているうちは心身とも元気で気持ちよくやっていきたい。元気でやっていくにはそれなりの暮らしの工夫が必要で、トライアスロンに向かうということが、そのまま元気で暮らすための工夫となっている。その工夫とは、心身の全体を総動員して取組む日々の挑戦であり、その挑戦をつづけていく緊張感が、私に生きていることの楽しみを与えてくれる。
    そう。向かう先は「生きていることの楽しみ」であるようだ。

    日本晴れ 走り初めして 初詣
    いつも正月には今年やるべきことを書き出して優先順位をつけている。
    以下、トライアスロンについて、今年やるべきこと。
    1 肩の痛みのリハビリテーション
    2 身体づくりの日々のプログラム開発と実践
    3 毎週土曜日のATAトレーニング参加
    4 朝ランの定着
    5 バイク練習時間の増加
    こんなところかな。
    写真は快晴のなか、遠くに見えるスカイツリー。
    まだ昇ったことがない。今年は昇ってみたい。