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  • 続けて70歳のトライアスロン日記(3)。この金曜日12月3日に痔の日帰り手術を受けた。

    続けて70歳のトライアスロン日記(3)。この金曜日12月3日に痔の日帰り手術を受けた。

    痔にもいろいろとあるようだが、私の場合は痔核、いわゆるいぼ痔。
    今日はこの痔がテーマである。
    日本人の二人に一人は痔もち、なんて話も聞くが、ネットで調べても、痔の治療法や病院のPRはよく見るものの、痔を患った体験談が少ないように思う。多くの体験談があれば、自分と比較していろいろと見当をつけたりするのだが、なかなか見つからない。
    まあ、あまり人に話す病気ではないことはよくわかる。
    しかし、しかしだ。
    日本人の二人に一人に向けたメッセージとして「それでは私が書いてみよう」と意気込んで(笑)みたいと思う。
    まずは手術の様子をお伝えしたいとも思うのだが、病気というやつは経過観察なんて言葉があるように、時間軸に添った状況把握が必要である。
    そこで、まずはことの始まりから。
    50年も昔、大学時代である。初めて痔に襲われたときはハッキリとおぼえている。場所は神宮の野球場で大学野球を見ていた。寒いくもり空であった。その頃の座席はコンクリートのむき出しであったように記憶している。冷えたのだろう。急に違和感と痛みに襲われて「ああ、痔になってしまった。これが痔なのか」というその瞬間を覚えている。いまでもその光景を覚えているほどにショックであった。思い出してみると、ポイントは腫れであり、肛門部にまさに「いぼ」の違和感を覚えた。ただの痛みではないから驚いたのだ。
    そのあとの記憶はないが、多分トイレに行き、肛門部を触り、腫れ(いぼ)を確認したことであろう。その後も記憶を引きずっていないので、短期間で自然治癒となったと思う。
    次の記憶はそれから10年。結婚して子供はまだいなかったので28歳か29歳であったと思う。編集の仕事をしており、締切で徹夜が続いていた。3日ほども横にもならずに机に向かって入稿作業を続けていた。いま思うと考えられないよなあ。
    そしてある瞬間に、みるみる肛門が腫れていく瞬間が訪れた。この瞬間もよく覚えている。このときは「いぼ」というよりひどい炎症で、自分で見たわけではないが、感覚としてはまさにタラコのように腫れていったのだ。
    この時は締切が終わり、十分に睡眠をとって疲労回復し、ボラギノールにお世話になることで自然と治った。
    その後、何回か痔の症状に見舞われたが、多くの原因は長時間の座業、過労であり、ボラギノールで手当をして疲れを回復させると自然治癒となった。普段便通は「朝食後に一発」という「快便派」で、時折下痢気味の程度で、便通と痔とを結びつけることはなかった。「たまには痔になるが、疲れをとって、ボラギノールで自然治癒」というのが、私の痔の認識であった。
    治療はだいたい、ボラギノール1箱以内といったところか。
    それで今回である。悩みはまず「下痢」として訪れた。大まかに3年前からである。朝食後の一発が軟便となり、すませても5分後に2回目、また5分後に3回目、さらに直後には4回目にもなっていまう。3回目からは完全に水状態。勢いよく水が通るので、肛門がヒリヒリと痛む。
    まず困ったのは、安心して出かけられないというころなのだが、これが不思議に3回か4回もトイレに駆け込むと、いったんピリオドが打たれるのだ。それを確かめて、シャワーを浴びて出かける用意となる。シャワーを浴びるとヒリヒリも収まってくれる。
    しかしだ。昼食後にも下痢となるのだ。これはまいった。そのため、よく出かける地下鉄の駅などのトイレを覚えるようになる。幸いなのは、最近の公共トイレの清潔さ。私のような昭和の人間にとっては、驚きである。
    この下痢が続いて、2年前には痔となる。今回は簡単に自然治癒はしてくれない。毎日下痢で肛門を痛めているのだから、悪くなる一方である。
    痔を強く自覚するようになったのは、ランのトレーニングである。走ると痔核が腫れて痛むのだ。今回は簡単に自然治癒はしてくれない。毎日下痢で肛門を痛めているのだから、悪くなる一方である。走ったあとは風呂につかって、痛みをなだめ、日常生活で始終意識することはないが、ともかくランのトレーニングができない。
    そうしているうちに、2021年の長良川トライアスロンが近づいてくる。
    さて、どうする。
    「この大会まではなんとかなだめ、大会後に治療に向かおう」
    思いを定めて、毎日痛みに耐えて10キロを走っていた時期があったなあ。
    痔の手術 終えてスッキリ 秋の夕焼

    実のところは「スッキリ」は願望で、痛みに悶々としているところ。
    さて、この続きは次回とする。
    写真は手術後にいただいた説明書。

  • 70歳となり病気と病院との付き合いのなかでわかったことは「自分で考え判断する」。

    70歳となり病気と病院との付き合いのなかでわかったことは「自分で考え判断する」。

    続けて病気の話題で「恐縮」の感もあるのだが、ご同輩やこれから老年を迎えようという方々には何らかのご参考になることもあろうかと、血圧・下痢・痔について、我が身に降りかかった事態をまとめておく。
    まずは血圧。40歳を過ぎるころから、病院に行く機会が増えていく。私の場合は腰痛があった。それに派生して、さまざまに検査の機会も増えていき、その延長で眼底検査をうけて「血圧高め、動脈硬化の可能性あり」との診断をうけた。しかしそれでなにか対応をしたかというと、まあ、あまり自覚もなく暮らしていた。ちなみに血圧とトライアスロンを始めたこととはまったく関係がない。
    改めて血圧に向かい合ったのは、あれは4年ほど前に受けた体力測定検査である。呼吸器をつけて、ベルトの上を走って運動による影響をみる検査だ。前から一度やってみたくて、受けたのだが、血圧検査のベルトを巻いて走り始めて「血圧が高いので検査できない」となった。血圧は200に達したといわれ、さすがに驚き、病院に行くことにした。
    病院はNTT関東病院の腎臓内科で、以来いまに至るまで3カ月に1回は通って、尿や血液の検査を受け、薬をもらっている。薬のおかげで現在の血圧は上が120、下は65程度と安定している。いたって気のいい美人の(いつもマスクなので多分)女医さんで、大変にありがたく思っている。
    そこで2年前に「他に何か気になるところはありませんか?」の質問があり、「下痢で困っています」「では大腸内視鏡検査を受けましょう」ということになって、ポリープ発見。これが生理検査で初期がんと診断され「きれいに削除したので安心してください」ということになった。
    ここで私が理解したこと。
    ・血圧が確かな「治療対象」となるのは、年齢が大きく影響している。
    60歳を過ぎたら血圧に注意。
    ・血圧の「治療」は薬物治療であり、薬との暮らしが始まる。
    服薬は、おそらく、一生となる。
    とはいうものの、80を過ぎたら一切の薬をやめてみようかと考えてもいるが。
    ・血圧の治療は定期的に病院に通うことになる。
    よって血圧の治療は継続的な健康管理の側面を含む。
    そんなこともあり、私は人間ドックを受けていない。
    次に下痢である。もともと「快便」で、子供時代より、判で押したように、朝食後に一発ですましていた。硬さも良かった、というより、便について考えることもなかった。それが、朝食後に2回、3回と増え、3回目にいたってはまったくの液状、さらに昼食後にも下痢をもよおすようになった。これが毎日となる。
    下痢の犯人捜しが始まる。ネットでは下痢の原因情報が多く出ており、まず、子供の頃より愛飲していた牛乳をやめた。酒を意識するようになった。ヨーグルトや野菜、魚など、いろいろやったが効果がみえない。下痢は日常に定着する。
    そこでよくよく考えて「ひょっとして薬か」に思い至ったのが、今年の夏である。
    下痢は3年前からである。
    原因は食習慣か老化であるが、老化であれ直接には食習慣であるはずだ。
    3年前から確かに変化した食(と言えるのかどうか)習慣とは、薬だけである。
    なかなか、ここまでたどりつけなかった。
    飲んでいる薬の添付文書を調べると副作用に「下痢」の文字がある。
    というより、調べたどの薬にも「下痢」の文字があるのだ。これはちょっと驚いた。
    薬には副作用があることはわかっている。しかし、このような形で自覚するとは思ってもいなかった。副作用とは直接反応で、飲み終えればなくなると思いこんでいたのだが、続けて毎日飲んでいれば、それは副作用は日常として定着もするだろう。別に当たり前のことなのだ、もっと早く気付きたかった。
    そして、先生に伝えて薬の種類を替えると、なんと約2週間後から、確かな変化をつかみ始めている。始めているというのは、日によって違い、まだ安定はしていないからだ。
    そこで思うことは、先生には下痢を訴え、そのために大腸の内視鏡検査を受けていたのに、かかりつけの先生も、内視鏡検査診断の先生も薬の可能性を指摘せず、原因は薬ではと疑ったのは私であるということ。それも随分と時間がかかった。
    「先生、早く気が付いてよ」と思わないでもないが、これを非難するつもりはない。そうしたものなのだろうと思うばかりだ。

    ここで私が理解したこと。
    ・体調変化(特に下痢)の原因として薬の副作用を疑う。
    服薬が増えた老人は薬の副作用に関心をもつべきた。
    ・自分の身体と治療の方法は自分でよく考えて医師任せにしない。
    あるいは回答は医師ではなく自分でもつものなのだ。
    ・老人になったら定期的に通い、フランクに意見交換ができる医師との関係が必要になる。
    それは探して作らないとならない。
    私の場合は、血圧管理が病院に通う理由となっている。つまり病院に通うには病気でなくてはならないのだ。
    毎年花粉症とインフルエンザ予防注射で通っている駅前のクリニックがある。
    加えてNTT関東病院で定期的な血圧治療を受けており、私は双方の先生とも信頼をおいており、満足している。
    ただし、NTT関東病院からは、厚生労働省の拠点病院の施策から、クリニックへの変更を求められている。これからは、どうなることやら。
    高齢化社会では、病気であるかないかにかかわらず「定期的な心身管理」と生活指導、さらには運動指導を行う病院が求められていくだろう。たとえば富裕層向けに月20万、年間300万円程度でそうした管理サービスをを行うというのは、考えられると思う。あるいは私が知らないだけで、富裕層の間ではすでに広がっていても不思議はない。
    私は富裕層ではないので、NTT関東病院との関係が切れても、血圧管理という病気(健康保健管理)を前提に、そうした私の健康管理の意向を理解、共有していただけるクリニック、先生を探すことを考えている。
    基本的に個人の先生に依存しない複数医師のクリニック。自前である程度の検査ができる中規模のクリニック。ホームページでそうした意向を示しているクリニック。場所は(家族ケアを基本にした)住宅地ではなく、ビジネス街の高齢者が比較的多いと思われるクリニック。果たしてこうした私の目測は的外れではないかどうか。

    三浦海岸 小春日和の マグロ丼
    どうも見たままで俳句とは言えないなあ。

    歳をとると、病院との付き合い方が、大切な暮らしの工夫となる。
    病院が嫌いな人は多いかと思うが、私は嫌いではない。
    かといって何も健康マニアではない。
    何か悪い具合を放置しておくのは好みではないのだ。
    病院で自分の身体の情報を得ることも楽しみに思っている。
    そして、病院の浮世離れした環境を好ましく感じている。
    病院に行くと、時間のとまったような感覚がある。
    次は痔となるのだが、話が長くなるので、次回にまわすことにする。

  • 2021年、70歳のトライアスロン日記(1)

    2021年、70歳のトライアスロン日記(1)

    何を、何から書くか。
    いろいろとあって、書くことで考えをまとめたいと思っているのだが、書き出しがつかめない。
    まずは書きたくないこの話から。
    10月10日の千葉市ティトライアスロンではスイムでタイムオーバーDNFとなってしまった。
    最後のブイをまわり、あと数十メートルのところで、時間です(1時間)と肩をたたかれて終了。
    この大会は準備不足でまったく自信のないなかでの参加だったのだが、スイムだけは今年に入ってから多少の上達をみていたので、まあ50分で泳げるつもりでいた。
    これはかなりのショックで意気阻喪。いまだに向き合うこともできず、ああ、とため息を漏らすぐらいしかできない。分析をすれば、加齢、体力の衰え、疲れ、基本的な能力など、リベンジ向けた対策もいろいろあろうが、気持ちはそちらに向かわない。

    そんななか、2021年に予定されていたワールドマスターズゲームズが、なんと、2026年に延期する方向という報道。このワールドマスターズゲームズのオリンピック距離に出て、あとはスプリントを年に1回ないし2回とイメージをしていた。だから千葉市ティもその準備のつもりであったのだが、そんな私のトライアスロン物語が描けなくなってしまった。例えば40歳での5年後と70歳での5年後は大きく違う。だって一昨年は大腸ポリーで内視鏡の手術をうけた(生理検査で早期がん診断)。ということは、すでに身体にがんを抱えているわけで、いつどこに出てもおかしくはないだろう。さてどうするか、考えはまとまっていない。

    10月10日を過ぎたらいぼ痔をなんとか片づけたいと思い、12月3日に手術を受けることにした。診断の先生は、注射治療と切除手術で治ると言い切ってくれた。お任せします。そこで手術のために心電図をとったら波長の乱れがみつかり、心臓CT(画像診断)検査を受けることに。飯田橋の検査クリニックに行って検査を受けたのだが、その際に注入した造影剤の副作用でジンマシンが発生。これはジンマシンだけのことなのか、あるいは、例えば疲れやすいなど、他の体調不良を起こしてはいないのか。落ち着かない体調不良の日々であった。
    診断では、心臓冠動脈に石灰化がみられるという。動脈硬化である。この年齢になると1、2か所あるのはいいのだが、けっこうあちこちに発生している。狭心症や心筋梗塞の予備軍である。だからといって今何かをするわけではない。対策としては定期的に診断をして気をつけましょう、ということのようだ。
    いずれにしても手術は受けることになった。手術をすれば2週間はほぼほぼ安静、激しいスポーツや酒は禁止とのこと。いまのところ、これでスッキリすればありがたいと、手術を楽しみに待っているのだが、ところで、この心臓とはどのように付き合うか。
    振り返れば、トライアスロンの運動検査で高血圧を注意され、降血圧薬を飲んで慢性下痢で3年間、下痢の原因を探るための腸の内視鏡検査で早期がんを発見切除、下痢は痔を引き起こし、そこから心筋梗塞のリスクを発見。病気因果の連鎖を生きるようだ。さらに加齢が原因で、声がかすれる、高い音が聞き取りにくくなっているとの診断。いやいやながらのインプラントで歯医者にも通っている。しかしこれはもちろん私だけのことではなく、ご同輩は多かれ少なかれ、であろう。
    ちなみに、下痢の原因がどうやら血圧の薬であることに気が付いたのは最近のこと。よくよく考えて、これしかないと思い、薬を変えて、その2週間後から下痢がおさまってきた。疲れ果てるほどの、長い道のりであった。
    老化というのは縮小であるという実感がある。
    筋力、柔軟性、反射神経などが縮んでいく。
    気が付いたらできないことが増えていく。
    そのスピードは驚くほどに加速していく。
    そのうえに、老化というのは病気を抱えることであるのだ。
    次々と病気がおこり、それを抱えながら縮小していく。
    縮小していく自分を見つめ、そんな自分を抱きしめながら、死へと向かっていく。
    別にそれが嫌なわけではない。
    これが老化という、誰も避けられないもので、へえ、と感心しながら見つめている。
    穏やかに受け止め、明るく元気で生きていきたい。
    まずは手術をして、さてどうなるのか。
    術後の2週間にいろいろと考えてみたいと、おかしな話であるが、心待ちの気分でいる。
    トレーニングは休み、酒も呑まない2週間だ。
    目を刺すような 秋の日差しに 向かい歩く
    手術前にと思い立ち、三浦海岸に行き、マグロ丼を食べ、昼呑みして、城ケ島を歩いてきた。
    いい休養になった。気分だけでも元気になった。
    ちょっと続けて書いていこうと思っている。
    今年の2月で70歳となった。次は70歳を振り返ってみようと思っている。

  • 今後のブログのテーは① スイム上達レポート、② オリンピック・パラリンピックレポート、③ 70歳となって6カ月の生涯スポーツレポート。

    今後のブログのテーは① スイム上達レポート、② オリンピック・パラリンピックレポート、③ 70歳となって6カ月の生涯スポーツレポート。

    今朝の起床は9時。
    7時ぐらいから目覚め始め、うつらうつらとしながら、ゆっくりと覚醒を待った。
    昨日の雨とは違って、今日は風の音が強い。
    部屋にはレースのカーテンのみなので、日差しが入ってくる。
    床を離れてみると身体はだいぶ回復した感覚がある。
    ドアをあけて外をみると青空が広がっている。
    吹く風は強いが心地よい。

    朝食はロールパン1個、ゆで卵1個と牛乳を多めに入れた紅茶。時折ビスケットをプラスするのだが、体重を落としたいので、すぐに歯磨きに向かう。
    ここで思うのは、明日が休みであることのありがたさ。
    土曜日はできるだけ仕事から離れるようにしているのだが、一方日曜は月曜の会議資料整備、メール作成、企画書の下ごしらえ、1週間の予定検討など、休み明けの準備に追われることが多い。だから3連休のなか日がうれしいのだ。
    よく「歳をとったらあくせすせずに」という警句を目にするが、現役で仕事をしていれば年齢にかかわらず、あくせくもするだろう。でも確かに、安息日が必要になっているようだ。週末の時間割を見直したい。
    昨日は久しぶりにブログに向かうことで、少し自分を取り戻したように感じ、今日また自然とブログに向かっている。自分を取り戻すとは、落ち着いて自分の考えで日一日を過ごすということだ。
    今年はブログを書く回数もだいぶ少なくなってしまったが、これはあくせくして落ち着いて自分と向き合い、考える余裕がなかったということなのだろう。
    私にとってこのブログは暮らしの計測器のようなものなのかと思う。
    実はこの間にも何回かブログを書き出してみたが、途中でやめてしまった。たとえばこんなテーマである。
    ① スイム上達レポート
    昨年9月より意識的にスイムの上達に取組み成果を実感している。
    名倉コーチの指導でここまできたプロセスを整理してみたい。
    ② オリンピック・パラリンピックレポート
    開催賛成の私の立場で今回のオリパラを振り返ってみたい。
    一方反対を声高に叫んだ社会のありようも私なりに考えたい。
    ③ 70歳となって6カ月の生涯スポーツレポート
    諸般衰えを感じているのだが、改めて70歳からのスポーツを考えてみたい。
    トライアスロンを続ける私なりに「老人にとってのスポーツの楽しみ」「スポーツと私たちの社会」「社会と生涯スポーツ」を考えてみたい。それぞれは複雑に関係しており、3つ揃えて何らかのメッセージをまとめてみたいと考えている。
    そのメッセージとは端的に言えば「老いを重ねながら元気で生きていこう」ということであり、はなはだ突然ではあるが、ここまで書いてきて、岡本かの子の「老妓抄」という短編小説を思い出したので、話はそちらに移る。
    いま調べてみたら、青空文庫に入っているのだ。
    https://www.aozora.gr.jp/cards/000076/card447.html
    この小説は大学生のときにたまたまに出会い、心にしみわたった。ここに私の好きな世界があり、この小説に示された人生観が、50年を経て、いまの私に確かにつながっていることにいまさらながら驚いてもいる。
    この小説は題名のように「老いた芸者」を知人の小説家(作者)が紹介するという仕立てになっており、その内容は青空文庫にゆずるとして、この最初と最後の部分をここで紹介したい。
    ネタばらしのヤボは承知のうえで、それでこの小説の魅力が損なわれるわけでないことを確信して紹介する。
    冒頭
    平出園子というのが老妓の本名だが、これは歌舞伎俳優の戸籍名のように当人の感じになずまないところがある。そうかといって職業上の名の小そのとだけでは、だんだん素人の素朴な気持ちに還ろうとしている今日の彼女の気品にそぐわない。
    ここではただ何となく老妓といって置く方がよかろうと思う。
    終わり
    真夏の頃、すでに某女に紹介して俳句を習っている筈の老妓からこの物語の作者に珍らしく、和歌の添削の詠草が届いた。・・・・・・その中に最近の老妓の心境が窺える一首があるので紹介する。もっとも原作に多少の改削を加えたのは、師弟の作法というより、読む人への意味の疏通をより良くするために外ならない。それは僅に修辞上の箇所にとどまって、内容は原作を傷けないことを保証する。
    年々にわが悲しみは深くして
    いよよ華やぐいのちなりけり
    この詠草でこの短編小説は終わる。
    20歳のときに読んだこの歌を私はずっとおぼえてきた。
    ぜひご一読をお勧めしたい。私と同じく老境に足を踏み入れたあなた。そして若い女性にも(女性が主人公という理由から)お勧めしたい。
    私も改めて読んで、「華やぐいのち」にあやかり、元気をもらいたい。
    そして恥かしながら、私のブログから、皆様に元気をお届けしたいと思うのだ。
    朝ドアを開け 吹き込む秋風 大青空
    岡本かの子の引用のあとに我が駄作をあげるのは、大いに迷ったが、これは「ハイ、今日はこれでおしまい、ジャンジャン」の意味で、これがないとご笑納くださいとはならないので、ご勘弁いただきたい。
    ということで、改めて元気を出して、まずは「① スイミング上達レポート」をお届けしたい。
    トライアスロンを始めて12年。昨年9月よりスタートし、50メートルが1分15秒から59秒までになり、ようやく泳ぐことの入口にたつことができたプロセスを報告する。
    写真は駄作でよんだ今朝の光景。
    いろいろあるが、ともかく、今日はゆっくり休むぞ。

  • この3連休のテーマはリセット。千葉シティトライアストンまであと20日。

    この3連休のテーマはリセット。千葉シティトライアストンまであと20日。

    今日は3連休の初日・土曜日だ。
    トライアスロンのトレーニングに向かうためにいつもと同じように6時に起床。
    外は激しい雨で、寝床の耳に雨音が響く。
    昨夜は3時にトイレで目覚め、そのあとの睡眠が浅く、うつらうつらと夢にうなされるままに、目を開けるとちょうど6時であった。
    なぜなのか、うなされた夢のシーンは、フェレデリコフェリーの映画「カリビアの夜」で、ジュリエッタマシーナがマンボを踊るシーンだった。確かに、私は「マンボ!!」といって踊りだすこのジュリエッタの「侘しき愛らしさ」といった風情がが大好きなのだが、このシーンが、ジュリエッタのステップが、マンボのリズムが、果てしのないように、繰り返して夢に現れるとなると、なかなかに狂おしい。
    今日は休みにするか、とも思ったが、思い切って起き上がったのだが、身体はだるくもあり、変な緊張感で気がたって、明らかに寝不足を伝えている。家をでるまで行くか行かないか迷いのままに、結局は土砂降りのなか、自転車で傘をさしてジムへ。こんな激しい雨のなかで自転車を走らせるのは、以前にロタ島のトライアスロン大会で、バイク中にスコールに見舞われたことを除くと初体験である。
    事故が怖くて「落ち着け、落ち着け」とおまじないのように口の中で唱え、びしょぬれでペダルを回した。
    「70歳にもなって」と苦笑する自分もいるが、まあ、だれに言われてやっているものでもないのだ。

    8時30分からスイム。
    10月10日の千葉シティトライアスロンまではあと20日になってしまった。
    そこでウエットスーツを着たのだが、泳ぐとなんとも息が切れる。50メートル泳ぐと1分近くの休みが必要なほどで、トレーニングは勝手に半分に間引いて、本来の目的であるウエットスーツを着てのフォーミングだけを意識した。それはそれで、キックに多少の手ごたえは得たものの、この息切れはなんだろう。
    寝不足の疲れか、あるいはこのところ感じている疲労感なのか。いやいや、今朝体重計に乗ったら、普段よりも3キロ近くオーバーして驚いたのだが、そのせいなのか。
    今日はともかく何もせずに寝ることにしよう。

    少し雨も収まってきた12時に帰宅し、スーパーで買った350ミリリットルのアサヒスーパードライと、鳥弁当を食べ、横になって気が付いたら午後6時を過ぎていた。
    寝床で1時間ほど本を読み、起き上がり、改めて体重をはかると、先ほどから2キロ減。ホントかよ。
    同じく昼に買ったおいなりさんをつまみながら、パソコンでラグビー対抗戦明治×立教をオンデマンドでチェック。
    どうも今年の明治はプレーが軽く、イラつくなあ。

    そして、いま夜の9時50分。今日は何もしないでひらすら眠るつもりであったのだが、これを書いている。
    こんなときに、一人住まいを実感する。

    今年の2月に70歳となり、6か月が過ぎた。
    昨年の長良川大会に出たのが10月17日。
    それは2021年に開催予定であったワールドマスターズゲームズへの参加資格をとることが目的で、そのワールドマスターズゲームズの開催予定は、いま大会のホームページを見ると2022年5月13日から5月29日までの予定となっている。今回の千葉シティは、この5月の大会に向けたステップという位置づけであり、昨年末の目論見としては、長良川大会以降、改めて身体を整えて、この千葉シティに向かい、ワールドマスターズゲームズへの弾みをつけたいと思っていたのだが、それが目論見どおりにいっていない。
    下痢と痔の痛み、腰痛、肩甲骨の痛みと、全体に身体のコンディションが思わしくないままにここまで来ている。それでも体重はおまり変わらなかったのだが、ここにきて体重も増えてしまった。
    ことしは5月の連休も、夏休みもほとんど休んだ実感なし。
    コロナ禍のなかで、ほとんど毎日仕事で出かけているような状態であるのだが、それでもストレスはたまっているのか。

    この3連休を大事にすごしたいと思っている。
    ママチャリに 打ち付ける秋雨 揺れるビニール傘

    70歳となった今年は心身体調生活仕事とも、とかく不安的であった。
    この3連休は休み第一でリセットしたい。
    そんな気分でブログに向かった。
    漫然とした内容となったが、まずは書いてみることからリセットしたいと思った。
    写真は私のランニングコースで見た秋の夕暮れ。

  • オリンピック開催にあたりスポーツの裡にひそむ「官能的魅力」について。

    オリンピック開催にあたりスポーツの裡にひそむ「官能的魅力」について。

    『健康というものの不気味さ、たえず健康に留意することの病的な関心、各種の運動の裡にひそむ奇怪な官能的魅力、外面と内面とのおそろしい乖離、あらゆる精神と神経のデカダンスに青空と黄金の麦の色を与える傲慢、・・・これらのものは、ヒロポンも阿片も、マリワーナ煙草も、ハシシュも、睡眠薬も、決して与えない奇怪な症状である。』
    これは三島由紀夫の一文であり、新潮社『川端康成全集11』月報 昭和三十七年八月に掲載されたもので、タイトルは「最近の川端さん」となっている。川端康成の睡眠薬事故にかかわる短文の最後にこの一文がでてくる。
    意外な出会いに驚き、一読して苦笑気味に強く共感をおぼえ、これをきっかけにして久々のブログに向かおうと思いたった。
    この文章のアイロニー、大げさな身振り、スポーツへの屈折した愛着がいかにも三島らしく、一方私にはそうした資質にほどんど欠けていると自覚しているのだが、スポーツをこのように語ることに感嘆をおぼえ「そう、そのとおり」と喝采をあげたのだった。
    「各種の運動の裡にひそむ奇怪な官能的魅力」という言葉には、私がトライアスロンを続けていくなかで発見したスポーツの魅力、しかもこう言われて初めて気が付いた魅力を見事に言い当てている。
    さらにこの「官能的魅力」こそが、大衆消費社会とグローバル化が進むなかで、スポーツが一大産業とまでなり、いま様々なに語られているオリンピックという山脈を育ててきたマグマのように思えてくる。金権とはいうが「お金の魔術」こそは私たちの社会の根幹でもあるではないか。
    官能とは生きる魔術であり、だから奇怪であり、人は官能のために死さえ求める。

    この文を読んだのは『谷崎潤一郎 川端康成』というタイトルの中公文庫で、タイトルどおり、三島由紀夫の谷崎に関する文と川端に関する文を集めたアンソロジーとなっている。この本を買ったのは三島由紀夫が谷崎をどのように語るのかに関心があったためで、川端康成は三島をとおして関心を抱きはじめたばかりで、この本を読んで『雪国』を買ってはみたもののまだ読んではいない。多分肌合いが違うのだろう。
    こんな具合なので、冒頭に掲げた一文との出会いはまったくの偶然であり、こんなところでこんな人に出会うとはまったく思ってもいなかった、というところなのだ。

    そこで話は谷崎潤一郎に移る。久しぶりにこの本を読むきっかけになったのが谷崎の『猫と庄造とふたりの女』をこれも久しぶりに読んだことにある。寝しなに「今日は何を読もうか」と思いながら本棚を眺め、ああ谷崎が読みたい気分なのだと自己納得して読んだ。
    これは好きな作品で何回目かの読書となり、その豊かな文体を楽しんだのだが、私にとっての谷崎の魅力とはこの文体の官能にあり、また谷崎の描き出す奇怪な官能こそは谷崎を作家たらしめる生涯のテーマであった。
    さらに、巻末の解説が磯田光一で、こいつが引っかかって『谷崎潤一郎 川端康成』のページをめくることになったのだ。
    ずいぶんと回りくどい説明となった。

    『男女同権の思想も、社会の改革のめざす思想も、一匹の猫を愛したために苦しむ庄造の心を救いえない。それが谷崎潤一郎の思想であり、彼の文学の真の異端性の根拠でもある。人間は進歩や開放など求めてはいない。あるいは自由さえも求めていない。人間が心の底で求めているのは、女であれ猫であれ、あるいはイデオロギーであれ、一つの対象のために奴隷になることである。そしてそのために身を滅ぼすこと以外に、人間の栄光はもはやないのかもしれないのである。もしこういう感覚を理解できないなら、そういう人は、あの楽天的な“進歩と改革”の理想を信じ続けるがよろしいであろう。』
    ここまで書いてきて、腑に落ちたところがある。
    谷崎を読み始めたのはいつ頃であったのか。文章読本は若いうちから読んではいたが、小説までは手が伸びなかった。谷崎の小説を読み始めたのは、多分50歳になってからだと思う。それまでは山田風太郎の虜になっていたが、それも一段落したところで「刺青」を読み、まさに囚われた。何に囚われたのかといえば「奇怪な官能」であり「身を滅ぼす人間の栄光」かと思う。妻ががんにかかったのが50歳で亡くなったのが55歳。なかなかにきつい日々のなかで、谷崎の描く世界に囚われることで、心の落ち着き先を見つけたのだろうか。
    そしていま、トライアスロンというスポーツの官能に目覚め、老いた日々の支えの一つとしている。
    どうしよう 走りに出るか 迷う夏

    私たちは何をよりどころにして生きているのか。
    何かと騒がしい世にあってどのように日々を処すべきか。

    オリンピックを前にして、開催賛否(主に反対)の声があがったが、反対意見で私の印象に残ったのは「命かオリンピックか」という声と「金権」という非難であり、私からすると「あの楽天的な“進歩と改革”の理想」から発した「正義論」にうつる。
    私は「人は何を売っても許されるが正義だけは売ってはいけない」という言葉を肝においているものである。この「正義論」は果たして私たちの「生きることへの渇望や官能」を満たしてくれるのか。「命かオリンピックか」という非難そのもののなかに「人間軽視」のパラドックスが潜んではいないか。金権非難の声は恥ずべき「怨嗟」から発してはいないのか。
    そんな感想をもって騒がしい世間を遠くから眺めていた。

    写真は夏のヒトコマ。
    さあ、オリンピックを楽しみもう。
    競技の緊張は、試合を終えた選手の表情は「スポーツのもつ奇怪な官能的魅力」を見事に表現してくれるのだ。それは私の命を潤してくれる。その頂点にある舞台こそがオリンピックという祭典なのだ。

  • ランのトレーニングについて考えをまとめました。早走と遅走の違いです。

    ランのトレーニングについて考えをまとめました。早走と遅走の違いです。

    今日はトレーニング日よりだった。スイムのあとのランは400メートルの1周コースを8周。これは2週間前と同じプログラム。このトレーニングは8本とも同じスピードで走るのがポイントなんだそうだが、前回も今回もまったく無視して、まだ体力のある1本めは目いっぱい飛ばす。自分がどのぐらいで走れるのかを試したいのだ。今回も前回と同様に1分30秒を越える程度で走ることができた。これを1キロに換算すると4分を切る。
    それから一本ごとにどんどんとタイムは落ちていき、最後は2分20秒程度にまでなった。1キロ換算で6分弱となる。なんとなくわかる感じなんだな、これが。
    同じスピードではなく、勝手に違うスピードにトライするトレーニングとした。
    この違いは何か。これは以前から思っていたことであり、今日のブログはランニングフォームとスピードについて考えてみる。
    1本目と2本目以降では、走り方がまったく違うのだ。早い走り方と遅い走り方の2つがある。これを早走、遅走と呼ぶ。
    もちろん元気があるうちは早走で、疲れて息が切れてくると遅走になるのだが、疲れに限らず、気合を入れれば、早走での走り出しは可能である。しかし、遅走から早走への移行ができない。遅走でだんだんとスピードをあげても早走にはならない。ギヤチェンジができない。これはフォームの問題である。
    では早走フォームと遅走フォームでは何が違うのか。私の感覚では、膝の上げであるようだ。膝をあげてジャンプをするような、はずむような意識で走る。これが早走。早走で走るときは、身体がぶれないようにする。つまり全身を意識することになる。
    一方の遅走といえば、何も考えず、意識せずに走り出す。するとジャンプの感覚は生まれず、いわばペタペタとした走りとなる。いつもトレーニングの走り出しは完全に遅走であり、身体が温まり、呼吸が落ち着いてきて、だんだんとスピードをあげていくのだが、フォームは遅走のままなのだ。なんだかわからないが、そのフォームで固まってしまい、早走へのギアチェンジができない。
    早走=ラン、遅走=ジョグの違いともいえる。
    老いとは心身の委縮であり、老いて失われるのは躍動感である。だから意識をしないで黙って走れば、フォームはジョグとなってしまう。ジョグのフォームで頑張ってもスピードはそうあがるわけではない。
    そのように考えてみる。
    そこからトレーニングを考える。
    ここからは私自身の考えかたの整理。
    私には早走、遅走の2つのギアがある。
    早走=ラン、遅走=ジョグである。
    ゆっくりと走り出し、だんだんとスピードをあげていくにしろ、初めからフォームは早走を維持して、遅走にはしない。ランは走り出しから最後まで早走なのだと覚悟を決める。
    一方遅走はLSDで長い時間の呼吸ジョグトレーニングと考える。
    となると、早走を維持するには、LSDをベースに3キロ程度のラントレーニング、さらにはサーキットトレーニング、体幹強化に脚力(筋力・柔軟性・反発力等)の強化が必要になるのだろう。
    これはなかなか厳しいなあ。
    走り出し 身体包むか 初夏の風
    腰はだいぶよくなっているのだが、痔のほうが一進一退。今日も具合がよくなかったなあ。なんだか「70歳で痔の格闘記」のような具合となってやるせない。何も考えずに思い切って走りたい。来週にはクスリが切れて医者に行く。なんとかしてくれ。
    明日は超久しぶりにバイクに乗ってみようか。
    写真はいつもの散歩コース。東京湾となっているが、東京ディズニーランドに行きつく。そこまで走りにいったこともあった。懐かしく思い出す。

  • トライアスロン、3種目競技であることの魅力、楽しみについて。

    トライアスロン、3種目競技であることの魅力、楽しみについて。

    今日は久しぶりにスイム+ランのトレーニング。
    ランは400mを10本。昨日も神経ブロック注射を腰にうったような状態で、走れるのかどうか、走ってどんな身体の反応がでるのか、不安であったが何とか1本休みを入れて9本をこなした。
    まずは走れた。1本目は1分30秒程度で走ることができた。あとは2分10秒を越える程度であったが、気持ちよく走ることができた。走ったあとに腰の違和感があったが、ひどい痛みや歩けないなどということはない。
    腰と肩甲骨の痛み、痔の炎症で、もう3か月も自粛状態であったが、ようやく8割がた回復かな。これまでは休みながら最低限身体を動かす状態であったが、トレーニングをしながら回復を管理できる状態になれたようだ。
    となると一日の時間割も日々変わっていくんだよね。自分と対話し、考えつつ、どうかな、6月末ぐらいまでに「よしっ!」というところまでもっていきたい。
    今日は私にとってのトライアスロンの魅力について、改めて整理をしてみます。
    「トライアスロンをやっています」というと、ほぼほぼ「すごいですね」と感心される。
    たいがい「いやいやそんなことはありません。短い距離もありますし、フルマラソンと比べればレース後の消耗はずっと少ないですよ」とこたえている。それは事実。
    これは「トライアスロン=肉体の高い負担」というイメージからのコメントであるが、いまひとつ「3種目もやるなんて」というイメージもあるかと思う。
    しかし、私にとってのトライアスロンの魅力は「3種目」というところにあると思う。
    そのことをお伝えしたい。

    私がトライアスロンを始め、また続けているのは「生涯スポーツ」の楽しみである。
    55歳で妻をがんでなくし、3人の子供たちも成人して家を出ていくという暮らしの大きな変化のなかで、自然と「生涯スポーツ=老化のなかでも続けていけるスポーツ」への関心が高まってきたのだが、第一候補は合気道であった。男たるもの格闘技はやってみたい。老化の転倒防止にも役立つだろう。ネットで教室を調べていたので、そこで何かの出会いがあれば、合気道に行っていたと思う。
    第二候補は社交ダンス。音楽に合わせて身体を動かすのは好きであるし、女性相手というのも心ときめく感じがあり、これもネットで調べたなあ。
    トライアスロンなんてまったく考えていなかったのだが、あるパーティで順天堂大学でトライアスロン選手だったという人と「生涯スポーツ」の話をしているうちに「だったらトライアスロンがお勧め」といことで、始まった。まったくのもののはずみなのだ。
    スイムは25mがやっと、バイクは乗ったことなし、ランはジョギングのみの状態でマラソン大会なんて無縁であった。体型は立派なメタボである。でもなぜなのか3種目で大変とは思わなかった。むしろ好奇心が湧いた。いろいろやれて面白いじゃないか、ぐらいの感覚で、それは今に至るまで変わっていないようだ。楽天的でいいかげんな性格なんだな。
    例えばランだけとしてみよう。きっとタイム向上に励むことだろう。スイムだって上達に向けたストイックな暮らしになっていたかもしれない。これは個人的な趣味の問題なのだが、もともと人と競い合うこと、闘うことが苦手嫌いである。
    3種目となるとそうした「極める、闘う」意識は低下するのだ。今日は泳ぐか走ろうか、久しぶりにバイクに乗るかと、いたってテキトーに楽しめるのだ。それが私にあっている。
    1500メートルを泳げるようになり、マラソンを完走できるようにようになり、ロードバイクに乗れるようになればそれでいいではないか。十分だよ。そんな感じで取り組んできたが、いずれも達成することができた。ロードバイクで琵琶湖一周なんて経験も得た。このことは満足している。

    闘うことが苦手嫌いであるが、トライアスロンのレースは楽しんでいる。レースの準備、会場の雰囲気、終わったあとの安堵感はいい刺激となっている。この刺激は自分ひとりでコントロールできるものであり、それは贅沢なことなのだ。独り身の暮らしのなかで、そのことを楽しんでいる。
    あと、練習でもレースでも、常に、ほぼ最下位ポジションであるが、私の場合、多少情けない気分はあるが、大きな苦にはならない。目標は安定した呼吸で時間内完走することであり、要は自分のことしか考えていないのだ。

    走っていると 空が気になる 梅雨の空が
    「無理はしないで」と多くの方に声をかけていただき、ありがたいことと感謝している。
    このお声掛けは、しっかりと受け止めている。
    でも、ちょっと無理するところが生涯スポーツの楽しみでもあるのだ。
    そのあたりの塩梅を計りながら、様子を見ながら続けていきたいと思う。
    当面の目標はワールドマスターズゲームズ2021関西。
    2022年5月21日(土)の開催予定なので、ちょうどあと1年。
    しっかりと準備を重ねて、準備を楽しんで、その日を迎えたい。
    今日の写真はワールドマスターズゲームズ2021関西のホームページのキャプチャー。
    ご一緒される方はよろしくお願いします。

    最後に、オリンピック開催が論議になっているが、私は開催賛成です。

  • 水泳と肩甲骨と腰の痛みについて体験的報告。

    水泳と肩甲骨と腰の痛みについて体験的報告。

    トライアスロンを始めてから、ずいぶんと身体のあちこちを痛めてきた。
    いちばんひどいのは、バイクの落車による右肩のヒビ。バイクと言えば、不自然な姿勢で顔をあげるので、頸椎を痛め、左腕がしびれてブロック注射を打ったなあ。
    足は左足の足底腱膜炎。痛くて階段を降りるのが難儀だった。5キロ以上の長距離を走ると、足指の根本が痛くなり、一足ごとに悲鳴をあげて走っていたことがあった。館山マラソンでは20キロで左足膝を痛め、それ以上走れずに棄権となった。
    これらの痛みはいつしか消えているが、考えてみれば、最近は長い距離を走ってもせいぜい10キロで、マラソンにも出ていない。はたして治ったのか、走っていないために痛みがでないだけなのか、わからない。
    スイムはバイクやランと違って、身体をぶつける事故や刺激はない。トライアスロンを始めた当初は背中がバキバキに痛んで整骨院にお世話になったが、それでも「筋肉痛」のレベルであったと思う。以来12年。スイムで身体を痛めることになるとは、思ってもいなかった。
    痛むのは右肩甲骨の下のほう。泳いでいるときは痛まず、何もしないときにジーンと痛む。痛み出してから1カ月ほどになるか。次いで腰が痛むようになる。これは右手を伸ばした折にちょっと腰に違和感を感じ、それがだんだんと痛みとなってきた。
    こうした痛みを発生させる原因といえば、フォームを替えてそれまで使っていなかった部分を使うようになったからである。肩甲骨を使うようになり、体側を伸ばしてローリングをするようになったからであり、それは名倉和希コーチのレッスンの賜物であり、言い換えれば12年にしてようやく泳ぐことの入口に立ったことなのだ。
    特にあげたいのが以下の3つ。
    胸をはる(猫背であった)
    肘を起点にして腕を回す(手を意識していた)
    腕を前後にピーンと伸ばす(手をかいていた)

    名倉コーチのレッスンで「まず猫背をなおしましょう」との指摘を受けた。そこでやってみる。
    けのびの姿勢でゆっくりと両手をかく。このときに胸をはるとスピードが違うのだ。スーッと浮いて身体の滑りがよくなる感覚がある。驚いた。これがスタートだった。
    胸をはることと、肘を起点に腕を回すこと、腕を前後に伸ばすことは一連の動きであり、これを稼働させるのが肩甲骨であり、それまでは肩甲骨を十分に使わずにひたすら腕をかいていたのだ。なるほどなあ。
    それはいいのだが、痛みをどうするか。
    整骨院でマッサージを受け、腰については神経ブロックの注射を受けている。
    ネット検索で次のような記事を見つけて、なるほどと納得した。まさにそのとおり。
    水泳肩
    クロールでは、水から抜いた腕を前方へ運び、ふたたび水中へ入れますが、入水前に肩関節は内側に回転し、同時に前方へ思い切り伸ばされます。このとき肩甲骨の強力な靭帯と、上腕2頭筋の腱などがぶつかってこすれ合うことがあります。水中でプル動作が進むにつれ肩を内側へ、脚の方へ強い力で引かれるので、こすれあう腱への血液循環が悪くなります。このようにして腱の炎症が起きると少しずつその部分が肥厚して、まさつが強くなります。その結果おきる肩関節痛が水泳肩です。
    腰痛
    クロールでは、水の抵抗を最小限にするために体を流線型に保つためと推力を強めるため、ハイエルボー(水中で肘を高くして腕をかくこと)を心がけるために、常に背筋を緊張させて腰椎を伸展(前かがみの反対に反りかえるかたち)させています。このような姿勢の保持により、背骨の全長に添って付いている太い筋群が緊張しつづけることと疲労することにより腰痛が出現します。
    中高年では、クロールの呼吸を一流選手のようなローリングで行うと腰椎に強いねじれと過伸展が生じ腰痛を起こすことがあります。見栄を張らずに「丸太泳ぎ」(上半身全体をぐるりとまわして呼吸する)をおすすめします。
    いやいや見栄を張るつもりはまったくない。
    痛むのは右半身で、左はなんともない。クロールは左で顔をあげる。
    名倉コーチによると、痛めるのはだいたい顔をあげる反対側で、クローリングが十分でないことが原因という。
    真面目か冗談か、名倉コーチからは「この際、反対側で顔をあげるようにしてはどうですか」と言われたけど、どうかなあ。まずはチョコっとやってみるか、なんて気になっている。

    薫る風 青葉をめでて 身体の声を聞く
    名倉コーチは整体もやっているとのことで、自宅に来ていただいてボディケアをしていただくことになった。これはまったく考えてもいなかった展開だ。面白い。人生は驚きに満ちている。トラブルは新たな楽しみへの助走なのだ。
    この報告も追っていたします。
    今回は写真なし。

  • 腰痛が悪化。。こいつは「腰を据えて」取り組まないとならないなあ。

    腰痛が悪化。。こいつは「腰を据えて」取り組まないとならないなあ。

    この水曜あたりから腰痛がひどくなった。木曜の夜は痛みのためにほぼ眠ることもできず、歩くにも不自由な状態となり、金曜におなじみとなった小岩のペインクリニックに行ってブロック注射をうつ。先週に引き続き今日のトレーニングも休みとした。

    腰痛の病名は椎間板ヘルニアで、最初に発症したのは40歳の頃。ほぼ1カ月の間NTT関東病院に入院した。退院する際に、医師から繰り返すだろうと言われたのだが、このブログを振り返ると2017年の4月の12日に小岩のペインクリニックで治療を受けている。
    ブログには「結局昨日の夜は満足に眠ることができなかった。どんな姿勢をしていても右足が痛み、息をひそめて一夜をやり過ごすことになった」とある。
    症状は同じだな。痛みはことときのほうがひどかったようだ。
    この時は1回の注射で痛みは消えたようだが、今回はスッキリとはいかず、痛みがまだ残っている。
    こうした体験から、今回の不具合についても、なんとかうまいことやり過ごして連休のトレーニングに向かうつもりでいたのだが、この痛み具合を考えると、どうやら一段と腹を据えて取り組まないとならないようだ。
    今回のブログのテーマは「腹を据えて腰痛を乗り越える」。
    その方法を考えてみる。
    ネットでいろいろと調べてみると、なるほど医学は日進月歩で、以前とはだいぶ様子が違ってみえる。チェックしたのは以下の4点。
    1 椎間板ヘルニアの原因の一つは加齢である
    2 痛みがおさまれば約3カ月程度で自然回復する可能性が高い
    2 適度な運動は推奨される。散歩がお薦め
    3 新たな「ヘルニコア注入」という治療法が生まれている

    2017年66歳で、2021年に70歳で再発となった。今回の治療では骨密度検査を受けた。平均値であるものの、2017年より低下している。やはり老化現象として繰り返すんだな。これは何とかしないとならない。
    直接的な原因としては、スイムのオーバートレーニングと考えていたが、2017も同じ時期であったことは注目である。4月といえば確定申告というパソコン作業を終えたところではないか。40歳の最初の発症も直接的な原因はパソコンでの徹夜業務であった。
    まず加齢がベースにあり、そのうえでパソコンのオーバーワークが地ならしをしてスイムのオーバートレーニングが重なったということなのか。
    さて、どうする。
    今回はどうする。
    繰り返すのであれば、これからどうする。

    まず今回は自然回復を目指そう。
    痛みをなだめつつ適度に身体を動かして回復を待つのだが、この「適度」が難しいのだ。
    散歩、ゆったりスイム、ストレッチ、筋トレなどでだんだんと身体を作っていく。やりながら考える。これを3カ月とすると、5月、6月、7月となる。
    それをベースに繰り返さない生活習慣、身体づくりを行う。
    まあ、自分を実験台としてどんなものかを見ていこう。
    それでだめなら新手法に挑戦しようか。

    さて、今日は朝のトレーニングを休んだ。
    20分ほどゆっくりと散歩をした。
    テレビでラグビーを楽しんだ。
    プールにでかけて、水のなかでの腰の痛みの感覚を確かめた。
    目に青葉 もどかしいかな 腰のヘルニア
    70歳から気持ちよく暮らしていく身体をつくる。
    そんなことを考えてきたが、この腰痛でその思いは一層強くなった。
    それは70歳からの生活習慣を作ることでもある。
    大切なことは、誰に頼まれわけではなく、勝手にやっているということ。
    だから、のんびりと、そのことを楽しんでやるのがいい。
    ネットで「水泳 腰痛」で検索するといろいろと情報が出てくる。
    「水泳肩」という言葉もあるのだ。
    これについて次回に。
    写真は散歩道で眺めた空。見事な雲。